匠雅音の家族についてのブックレビュー    女子刑務所にようこそ−日米刑務所入獄記|流山咲子

女子刑務所にようこそ
 日米刑務所入獄記
お奨度:

著者: 流山咲子(ながれやま さきこ)−洋泉社、2004年   ¥1500−

 著者の略歴−

 映画には、しばしば刑務所が登場する。
アメリカ映画では、古くは「ショーシャンクの空に」や、
デッドマンウォーキング」「アメリカン・ヒストリー X」 「ホワイト オランダー」など、 また「シカゴ」といったミュージカルも刑務所を舞台にしている。
イギリス映画では「ラッキー ブレイク」、そして、 我が国では「うなぎ」といったところが、刑務所を登場させている。
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 刑務所を舞台にした外国映画は、映画だから実際の刑務所とは違って、相当に脚色されている。
それに対して、我が国の「うなぎ」だけは、事実に即して描いている。
だから、厳しい風景なのだろうと、愚かにも不思議に思いながら見ていた。

 それにしても、我が国の刑務所と、外国の刑務所があまりにも違う。
「ラッキー ブレイク」は刑務所の中が生活、中心に描かれている。
そこでは受刑者たちが、外部に電話している。
この映画の伝える雰囲気が、きわめて自由なのだ。
刑務所における彼我の差、これは長年の疑問だった。
そうした長年の疑問に、本書が答えてくれた。

 筆者は、1990年に詐欺罪で逮捕され、1993年にアメリカの刑務所を出所した。
帰国後、1999年に強盗致傷の共謀共同正犯で逮捕された。
そして、2年の懲役刑を2001年の夏に終えている。
日米の刑務所を体験した非常に珍しい存在である。
その筆者によって、我が国とアメリカの刑務所事情が、克明にしかも衒いなく明らかにされた。

 がんじがらめの分刻みの規則で縛り上げられ、作業の合間の時間は黙想で私語を禁じられています。受刑者同士の善意の交流さえ禁じられています。
 こんな時代遅れの非人間的な些末主義、事大主義の規則については、恨み辛みの感情を交えて、目いっぱい語るつもりですが、たぶん日本の刑務所の規則は、世界に類をみない診無類なものでしょう。P12


 起床のあと点呼がありますが、この時は決められた場所に安座して待ち、「点検」の号令で正座します。
 食事は、部屋の中の決められた場所でとり、食べなかったときは、その理由を看守に申し出なければなりません。
 自由時間だからといって、自由に寝そべったり、部屋の中を歩き回ったりしてはいけないのです。決められた場所に座り、決められた姿勢で、時間を過ごさなければならないのです。P44

 ねたみの気持が、さまざまな陰湿なひつかけやイジワルをさせます。
 たとえば、「私の石鹸、使ってもいいよ」などといったことです。
 この親切を真に受けて、「有り難う」と受け取ると規則違反ですから、場合によっては、仮出獄の取り消しになりかねません。P117


 筆者も言っているが、受刑に対する考え方がまるで違う。
我が国では、罪を憎んで人を憎まずではない。
犯罪者=人非人である。
だから、受刑者は真っ当な人間ではなく、矯正すべき存在と見られる。
しかし、アメリカでは受刑者を、同じ人間として扱う。
市民生活から一時的に隔離された人間と考えている。

 隔離することが刑であり、現実社会から隔離すること自体に、科刑の根拠をおく。
つまり、科刑とは自己決定権の剥奪であり、移動の自由に制限である。
だから、刑務所の中での受刑者の矯正など考えていない。
その結果、アメリカの刑務所は、原則的に実社会と同じ建前で作られている。
これは先進国に共通の考えである。

 人間の自立していることが前提の社会では、移動の自由を奪うことは、何よりも過酷な刑罰である。
鞭打ちや百叩きといった体罰が、受刑者に科せられていた時代には、人間が自立していなかったから、移動の自由を奪っても科刑にならなかった。
しかし、近代が誕生して以降、自己決定権の制限が受刑だ、と考えるようになった。
 
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 (ロス・アンジェルスのMDC拘置所で)もう一つ驚いたのは、建物の中にあるカフェテリアです。夜の10時だというのに百人近い囚人たちがテーブルに座ってコーヒーを飲みながら談笑しています。テレビを見ている人もいます。
 運動不足にならないようにアスレティックもあります。さらに、コミッサリーと呼ばれる売店があり、そこではマルちゃんのカップラーメンが買えるのです、それも醤油味の……。
 部屋は4畳ほどの広さの2人部屋で、2段ベッドが置かれていますが、日本のように部屋の中で正座、安座などといった座り方まで決められてはいません。決められている規則といえば食事の時間と夜23時の外からの施錠だけ。P150


 スポーケンの刑務所は、更生の見込みのある初犯者や比較的刑の軽い受刑者が収容され(中略)広い牧場のような敷地の中に一応、男女の棟に分かれていますが、行き来は自由ですから、当然、男と女の関係ができます。タテマエ上では、恋愛行為は禁止されていますが、男の受刑者にしろ女の受刑者にしろ、性に飢えていますから、こんな禁止事項なんか屁でもないといった感じです。
 夕闇迫るころになると、示し合わせた男女のカップルが森の中に消えて行きます。スポーケンの刑務所の森は、ラブホテルなんですね。
 房は6人部屋で、テーブルもあり、トランプもできます。窓も開けられますし、ベッドもふかふか。暖房だってバッチリと効いています。夜は鍵をかけて寝ますが、この鍵は各自一個ずつ持つています。(中略)
 カフェテリアは、化粧した女たちでいっぱいですし、コミッサリーでは、口紅、マスカラはもちろんさまざまな化粧品を売っています。
 日本の温泉旅館の卓球室よりも立派なつくりのビリヤード室があり、白熱したゲームが繰り広げられています。部屋のテーブルでは、ポーカーゲームに興じています。もちろん、みんな賭けています。
 服も自由、みんな私服です。家から送ってもらったり通販で買ったりしたものを着ています。身内がいなくて金のない人は、段ボール箱に入っている、ボランティアが差し入れた服を選んで着ています。P162

 もちろん「グリーン マイル」が描いたような死刑囚が収容されている刑務所は、囚人服を着せられて警備も厳重である。
しかし、我が国のどんな刑務所も、スポーケンの刑務所と比較するのは不可能である。
これはアメリカだけの現象ではない。
イギリス映画「ラッキー ブレイク」が描く刑務所も、スポーケンの刑務所に近い。
また、スウェーデンの刑務所も、中にはマーケットから郵便局まであるという。

 刑務所のあり方こそ、その国の人権状況を、正確に映し出すと言っても過言ではない。
我が国は外見上、先進国の仲間入りを果たし、人権が大切にされているように思うかも知れない。
しかし、実体はまるで違う。
犯罪の取締に関しては、科学捜査が導入され冤罪を罪悪視するようになった。
しかし、一度有罪にされると、市民としての扱いは消滅する。

 最高裁の判事は、大法廷で「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでが残酷な刑であり、絞首刑は合憲だ」と判示した。
そして、受刑者にも基本的人権はあるとしながら、その裁量は刑務所長に委ねられているという。
火あぶり、釜ゆでと言った言葉が、裁判の判旨に登場するのである。
だから、裁判官たちがどんな考えをもっているか想像がつく。
後進国の刑務所は、残酷が横行している。
 
 皮手錠での懲罰が行われていたことが、最近明らかになったが、状況が改善されるとは思えない。
すでに国連から、刑務所の処遇改善を勧告されているにもかかわらず、法務省は何の手立てもうたない。
刑務所が受刑者を人間と見ないのではなく、裁判官が受刑者を人間とは見ていないのだ。
裁判所は受刑者に新聞購読も通信の自由も認めないし、もちろん喫煙の自由も認めない。
看守だった藤木美奈子氏は、自著の「女子刑務所」で、受刑者の待遇改善を訴えている。

 裁判官をはじめ国民のほとんどが、受刑者の人権を制限しても良いと考えているのだ。
犯罪を犯した以上、人権が制限されるのは、当然だという考え方が染みついている。
市民たちもスポーケンの刑務所は、我が国の刑務所にふさわしくない。
こんなに自由な刑務所では、科刑にならないと考えるだろう。
スポーケンの刑務所が先進国の常識であっても、おそらく理解を示さないに違いない。
刑務所に関しては、ずいぶんと書籍も出版されているが、改善運動がおきる気配はない。

 受刑に対する考えが、根本的に違う。
規則でがんじがらめの刑務所が、受刑者から自主性を奪ってしまうので、社会復帰したときに適応できなくなる。
受刑者を矯正しているはずの我が国では、再犯者が非常に多い。
そうした事情はまったく考慮されずに、新聞は凶悪犯罪の増加を書き立てる。
拘禁者が逃亡したという話は、我が国ではほとんどきかない。
にもかかわらず、警備の厳重さは他に比を見ない。

 人間の形をした生き物には、等質の人権が備わっている、と考える資質は我が国にはないに違いない。
だから自由獲得=解放の思想であるフェミニズムすら、差別反対=平等獲得の思想へと変質してしまうのだろう。
我が国が自立した個人と言った、真の意味での先進国となるのは、いつのことだろうか。
本書を読んでいると、我が国の先行きが絶望的に見えてくる。    (2004.3.5)
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参考:
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006
足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005
三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003
浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005
山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000
菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002
有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005
佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001
管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007
浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004
藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001
ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008
小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001
芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987
D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004
河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004

河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009


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