匠雅音の家族についてのブックレビュー    弁護士いらず−本人訴訟必勝マニュアル|三浦和義

弁護士いらず
本人訴訟必勝マニュアル
お奨度:

著者:三浦和義(みうら・かずよし)  太田出版、2003年   ¥1700−

 著者の略歴−1947年生まれ。1984年、「週刊文春」が本人取材をしないまま、保険金目的の計画殺人の主犯で あると報道し、以来一年半あまりの間、マスメディアの集中砲火にさらされた。その後、逮捕・起訴されたが、1998年、東京高裁で 無罪判決を受ける。東京拘置所の中から520件余の損害賠償訴訟を提起し、その8割近くが勝訴している。2003年3月5日、最 高裁が検察の上告を棄却し、無罪が確定した。「情報の銃弾」「報道の人権侵害と闘う本」なと、著作多数。

 本書は、いわゆる「ロス疑惑」で犯人として起訴され、
無罪となった本人がマスコミを相手に、名誉毀損で民事訴訟を起こした様子を書いたものである。
情報社会化する中で、新たな家族のあり方を考える本サイトが、
本書を取り上げるのは奇異に感じるかも知れない。
しかし、人権なる概念が登場したのは、近代においてである。
その人権を大切だと考えるがゆえに、本書を取り上げる意味があると思う。
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 すべての人間に、等しい人権があると考えるがゆえに、
男女は平等なのだし、新たな家族像も思念できる。
人権を考える資料として、本サイトは「日本の刑務所」 「少年犯罪」 「自白の研究」等も取り上げている。
人権は対権力において語られる。
しかも、人権は裸の個人として語られるべきで、
弱い者や反社会的といわれる者にこそ、人権が保障されなければならない。

 在監者の人権は、なかなか論じられることは少ない。
とりわけ警察が逮捕したら、マスコミはそれだけで有罪扱いで、連日派手な報道を繰り返している。
いかに無罪を主張しても、聞く耳を持たないのが、
我が国のマスコミである。
有罪と攻撃された筆者は、真実を報じないのは名誉毀損だとして、民事訴訟を起こした。

 マスコミの暴力的な報道の前に、個人は為す術がない。
民事訴訟で戦うことは、きわめて有意義な人権確保の道である。
民事裁判について、筆者は次のように言っている。

 新聞社対一個人という図式では、何を聞いてもはぐらかされたり、明確な回 答が出てこないという状況にあります。はっきり言って、あなたが何回も新聞社に足を運んでも結果は全 く同じだと思います。同じことが、食品の偽称間題、パソコンなど電気製品の不良品問題などで、一個人が 大企業相手にクレームを発した時にも生じるに違いありません。まして、国や地方自治体などの公権力を相手 にする場合はいうまでもありません。名古屋刑務所でようやくに発覚した看守の暴行事件はその典型です。
 マスメディアは、他の大会社が経理の不正を行ったり、政治家のスキャンダルなどについては大騒ぎをして 報道しますが、自らの過ちについては、仮にそれが明確になった時点においても、明らかな謝罪をしたりはなかなかしません。P32


 いままで刑事事件で冤罪により逮捕され、無念の涙をのんだ人がいても、
それを報道したマスコミの責任を問うことは少なかった。
巨大なマスコミ相手では、泣き寝入りとなっても仕方ないように考えられていた。
マスコミの一方的な報道には、庶民は抗することができないように感じてきた。
しかも我が国の記者たちは、匿名性の陰に隠れて、自分で考えることができなくなっている。

 我が国では、紛争が起きたときに裁判をと考えるよりも、有力者の仲裁を求めたがる。
結果として、弱い者が泣き寝入りとなるケースが多いように感じる。
しかし、近代とは個人間の争いを、個人において決着付けさせない。
個人的な制裁や報復を許さない。そのかわりに裁判所が仲裁の労をとる。
だから、裁判所を利用すべきだろう。とりわけ、巨大な権力と戦うには、民事訴訟は有効な方法であろう。

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 日常の様々な争いごとの訴訟上のルールとしてあるのが民事訴訟法です。そしてこの民事訴訟法は本人訴訟を前提とした法律なのです。法律の素人の方には意外でしょうが、民事訴訟法には弁護士という言葉は一切出てきません。ですから、一人一人の市民の利害に関する紛争解決の裁判の主役は、あなた自身なのです。
 もし、あなたが自らの権利を侵害されたり、不当な立場に立たされたり、不当な揖害を被ったとき、あなた自身の権利の回復を求めるために最も確実な解決方法は、裁判所に訴え出ること、民事訴訟の道だと思います。そしてこの訴えとは、弁護士の手も借りずに、あなたひとりで十分にできるものなのです。P8


 マスコミは、言論の自由と報道の自由に守られて、個人の人権を踏みにじっている。
一度活字になってしまえば、それを目にした人は事実だと信じる。
痴漢で誤認逮捕された人は、逮捕されたことだけで、
職場に居づらくなって職業も失い、家族も大迷惑を被る。
刑事事件の容疑事実よりも、報道されたことによって、社会生活が破壊されてしまう。

 言論の自由や報道の自由は、
ほんらい対権力との戦いのために、確保されるべきものだった。
権力を放置すれば、必ず人権を抑圧する。
人権の抑圧防止を目的として、権力の行動を国民に知らせるために、報道の自由が存在した。
しかし、現在のマスコミは必ずしも人権の味方ではない。
今では第四の権力と化して、人権を抑圧する方になっている。
むしろ、国家権力の側である裁判所が、人権を守ってくれるかも知れないとは皮肉なものだ。
 
 一般的には裁判所はおおむね公平だと思っています。「ロス疑惑」の報道が盛んだった当時でさえ、裁判所は僕が訴えた民事訴訟でマスコミの違法性・名誉毀損の成立を認めた判決をたくさん出していました。そういう意味では、報道されていた疑惑の内容がどうであれ、そこに一線を引いて適切な判決をきちんと出してきたケースが多かったと思います。確かに、裁判官の中には最初からこちらの主張に対して、全く聞く耳を持たずという裁判官も少しはいましたが、私が受けた判決や審理した民事裁判の過程では相当程度の公平さは保たれたと思います。
 民事訴訟とは、訴えを起こした原告側の言い分と訴えられた被告側の言い分を吟味して、どちらが正しく、どちらに権利が存在するかを裁判官が明確に裁定する場なのです。そのフェアな原則が日本の民事訴訟ではおおむね守られています。P11


 憲法裁判では、国という権力側に味方しがちな裁判所も、
民事訴訟では柔軟な判決を出している。
金融において高利を無効とした判決や、公害・差別解消の判決、
戸籍上の妻ではなく同居の女性に年金受給資格を認めたなど、
弱い方に味方した判決も散見できる。
筆者は途中で裁判官の忌避までしているが、それでも勝訴判決を得ている。

 筆者の執念と根性には感心させられる。
1985年9月11日に逮捕され、それから13年7ヶ月間も、東京拘置所に勾留されていた。
その間、こつこつと法律を勉強して、独力で民事訴訟を戦ってきた。
もともと民事訴訟は、当事者主義を原則とし、弁護人は代理人に過ぎず、添え物である。

 刑事事件では弁護人は不可欠だが、民事訴訟には弁護士は登場しなくても済む。
筆者は本書において、刑事事件たる「ロス疑惑」については多くを語らないが、
1999年7月1日に無罪判決が出た。
そして、2003年3月5日最高裁が上告棄却して、無罪が確定した。

 現在、保釈が認められるのは20%程度だという。
証拠隠滅と逃亡防止のために、裁判所は保釈を認めない。
それにしても、13年7ヶ月とは何と長い月日であろうか。
これでは無罪といいながら、実質的な有罪である。
蛇足ながら、「弁護士いらず」というタイトルだが、
筆者は決して弁護士無用と言っているのではない。    (2003.12.05)
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参考:
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006
足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005
三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003
浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005
山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000
菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002
有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005
佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001
管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007
浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004
藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001
ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008
小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001
芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987
D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004
河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004

河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009
加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版会、2002
桜井哲夫「近代の意味-制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫

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