著者の略歴− 1948年、香川県高松市生まれ。慶大経卒、72年から共同通信記者。ジャカルタ支局長だった92年、インドネシア・スハルト政権から追放される。94年から同志社大学文学部教授(メディア学)。人権と報道・連絡会(FAX-03-3341-9515)世話人。 著書に「メディア・リンチ」(潮出版)『「報道加害」の現場を歩く』(社会評論社)、「新・犯罪報道の犯罪」(講談社文庫)、「マスコミ報道の犯罪」(講談社文庸)、「日本大使館の犯罪」(講談社文庫)、「松本サリン事件報道の罪と罰」(河野義行氏との共著、講談社文庫)「抗(あらが)う勇気」(ノーム・チョムスキー氏との対談、現代人文社)など他多数。 新聞などマスコミのあまりの人権無視に、ほんとうに絶望的になる。 我が国では、いったん警察に逮捕されたら、それだけで罪人扱いとなり、 一切の人権が剥奪される。 警察や国家権力が、人権を隠蔽したがるのは当然としても、 マスコミは何の見識もなく、ただ警察の広報機関に成り下がっている。
裁判によって有罪が確定するまでは、いかなる人も無罪と推定される。 これが先進国の常識である。 そのため、逮捕されても氏名には敬称がついているし、 場合によっては事件が報道さえれるだけで、実名がまったく記載されない。 しかし、我が国では、逮捕されるとたちまち呼び捨てになるし、良くて○○容疑者と呼ばれるだけだ。 かつて学生だった頃、逮捕されただけで呼び捨てになるのは、憲法違反ではないかと憲法学者に聞いたことがある。 そのときの返事が、実に歯切れの悪いものだったことを、今でもはっきりと覚えている。 憲法は国家の行動を規制するものであり、私人間には適用がないといってしまえば、 大きな組織や団体はやりたい放題になる。 人権擁護の砦たるマスコミは、憲法に敏感になるべきだ。 本書は、共同通信の記者だった時代から、犯罪報道によって人権が蹂躙されていることを憂い、 様々な試行を繰り返してきた筆者による経世の著である。 結論は、ただ一つ。 人権を守るためには、匿名報道すべきだという。 筆者の論にまったく賛成である。 筆者は、このたった一つの結論を言うために、多くの例を持ち出して論証している。 全面的に支持する。 今日のマスコミは、庶民の知る権利を擁護するのではなく、権力の広報機関になっている。 その最たるものが、警察による発表を鵜呑みにした犯罪報道である。 昔から、<記者クラブ>に対しては、大きな批判がある。 マスコミが第4の権力といわれる現在、マスコミも自らの行動原理を定めるべきだ。 問題はそれだけではない。 マスコミの報道自体が、犯罪となっていると、筆者は警鐘を鳴らす。 メディアは事件・事故報道において、捜査当局を監視し、司法の民主化に向けて市民を啓蒙すべきなのに、警察・検察・裁判所などの当局と一体となつて、市民いじめに奔走している。権力に介入させないで、メディア倫理を確立するという困難な作業が不可欠である。人間の尊厳を尊重しないこの国の貧困なメディアをどうするのかを真剣に考えなければならない。P4 最近では、犯罪被害者の権利擁護が主張されて、 被疑者や容疑者の人権は片隅に追いやられた感がある。 しかし、被疑者や容疑者の人権は、擁護されなければならない。 我が国では、庶民より国家のほうが時代を先んじているから、 庶民が庶民の人権をおろそかにしがちだが、 国家の本質を考えるとき、権力に足枷をはめることが不可欠である。 ジャーナリストは権力の監視人という、常識さえ通用しない我が国で、 筆者のいう匿名報道は空論に聞こえるかも知れない。 明治以来、報道機関は国家の宣伝機関だった。 だから、国家も<記者クラブ>などを作って、報道機関を優遇してきた。 今やマスコミは権力批判を忘れ、権力の走狗となっている。 とりわけ犯罪報道にそれが著しい、と筆者はいう。 まったく同感である。
警察の意をくんで、記者が捜査に協力し、警察に都合のいいように、記事が書かれていく。 そうした記事が、どれほど庶民を傷つけ、 時には自殺にまで追いやっている事実に、マスコミは無頓着である。 新聞やマスコミは、警察発表を鵜呑みにした記事掲載を自己正当化し続け、報道することによって加害者になっている。 一度、犯罪者としてマスコミに取り上げられると、壊滅的な被害を受ける。 殺到する取材陣たちは、傍若無人に被疑者や被害者に群がる。 かつて火事の取材に来た新聞記者が、消火や避難のための人たちに炊き出した握り飯を、黙って食べようとしたことがあった。 あれ以来、新聞記者の人格は最低に位置づけているが、新聞記者はほんとうに厚顔無恥である。 マスコミと大学は、批判するものがいないので、組織の自浄作用が働かない。 とりわけ新聞社は時代の最先端の事件を追いながら、自己の組織体質は旧態依然たるままだ。 女性差別も激しいし、外国人差別も温存している。 我が国の新聞社は、外国人記者を採用しない。 テレビ局への天下りも多い。 マスコミは人権を擁護しなくても良いから、せめて人権を弾圧しないで欲しい。 調査のあった直前の74年1月には「沖縄密約事件」の元毎日新聞記者に対する判決があり、国民の知る権利について議論がまき起こつていた。司法の危機が叫ばれながらも裁判所はマスコミの6〜7倍の信頼度を示している。マスコミは長い間「社会の木鐸」として社会正義を守る役目を自負してきた。しかし、この数字を見る限り、国民はマスコミを権利侵害的なものとして見ている。「正義の味方」は裁判所や警察で、マスコミは「正義の敵」と考えているのだ。P264 いまこの調査をすれば、1975年よりずっと強く、マスコミは「正義の敵」だと言われるだろう。 松本サリン事件、ロス疑惑事件などなど、マスコミが作った事件は多い。 下世話な好奇心に駆られて、しつこくあら探しをし、克明に報道していく。 集中豪雨的に殺到する記者たちに、生活が破壊され、職業が奪われ、自殺にまで追い込まれる。 家庭内暴力の被害者など、警察が人権を守っている、という声にマスコミはどう答えるのだろうか。 筆者のいう匿名報道は、庶民の人権を守るのには最適である。 匿名報道で何の不自由もない。 事実、スウェーデンでは匿名報道が根付いているという。 そうだと思う。 事件が報道されるべきで、個人の名前を知らせる必要はない。 容疑者Aで充分に通じる。 問題の根幹は、マスコミが裁判官の役割を果たしても良い、とマスコミ自身が考えていることだろう。 報道することによって、新聞やマスコミは事件を知らせるだけではなく、逮捕された人間を懲らしめようとしている。 懲罰を下すのは裁判官の役目であり、他の誰も刑罰を与えることはできない。 そのうえロス疑惑のように、マスコミは事件自体を作っている。 警察が何も捜査しない段階で、犯人をでっち上げて報道している。 捜査は警察の役目であり、マスコミの仕事ではない。 読者が求めているから報道するというのは、 報道人の倫理にならないというものも、まったくその通りである。 読者の好奇心に迎合することが、報道の役目ではない。 本書の論には、基本的に賛同するから、もっともっと細かく取り上げたかった。 1984年に旧版がだされて、今回新版になった。 その間20年もあり、加筆されている。 また、600ページ近い大著である。 内容が多岐にわたり、詳論できないもどかしさを感じる。 本書の論旨とはちょっと外れるが、筆者に疑問をひとつ。 筆者は新聞社から大学に職を移したが、 公務員と新聞記者の経歴だけは、大学教員の経歴として算定される。 通常の民間企業に勤めていては、職歴が大学教員の経歴として算定されない。 この差別的な対応をどう考えているのだろうか。 (2006.3.08)
参考: 鈴木邦男「公安警察の手口」ちくま新書、2005 高沢皓司「宿命」新潮文庫、2000 見沢知廉「囚人狂時代」新潮文庫、2000 ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 ジェリー・オーツカ「天皇が神だったころ」アーティストハウス、2002
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