著者の略歴−1960年生まれ。京都大学大学院法学研究科法社会学専攻博士課程修了。現在、桐蔭横浜大学教授。専門は準社会学。著書には『安全神話崩壊のバラドックス−治安の法社会学』(岩波書店)。共著には『法の臨界U 秩序像の転換』(東京大学出版会)、『体制改革としての司法改革』(信山社)、訳書に『司法が活躍する民主主義−司法介入の急増とフランス国家のゆくえ』(勁草書房)などがある。 現代はますます危険な社会になっており、凶悪犯罪が激増しているかのようにマスコミはいう。 しかし、凶悪犯罪は激減していると、本書は冷静に事実を語ろうとする。 そのうえ、強盗殺人で無期刑になって、刑の半ばで仮釈放されている人が、数百人いながら彼(女)らは、その後に事件をおこしていないという。
刑法が刑を科す基準を重くしたが、量刑は裁量の範囲ですでに重くなっており、刑法の改正は何の影響もないという。 いかにも日本的な法律の運用である。 厳罰化とか、終身刑というが、実際の殺人事件は、どんな人たちによって、どんなふうに起こされ、どんなふうに服役していくのだろうか。 筆者は細かい情報を、丁寧に論じていく。 人が殺されたといっても、事故や傷害事件の結果、殺されてしまった場合には、殺人とはいわない。 傷害致死である。 殺人事件だけを数えてみると、我が国の件数は年間800件くらいである、と筆者はいう。 しかも、我が国の殺人事件の典型は、心中であるともいう。 我が国では、家庭を中心にした殺人が、突出して多い。 2004年の殺人事件(未遂を含む)の検挙件数は、1224件あった。 このうち、子殺しが135件、親(養親を含む)殺しは121件、配偶者殺しが206件、兄弟姉妹やその他の親族が126件である。じつに半数が、親族間の殺人である。 1977年の1527件と比較してみる。 当時は子殺しが505件と全体の3分の1を占めた。 親殺しや配偶者殺しは、ほとんど変わらないが、子殺しが激減している。 これは嬰児殺しが減ったせいだろうと言う。 しかも、時代は変わって、今では男の子のほうが、多く殺されている。 嬰児殺しが激減した理由を、筆者は「できちゃった婚」にもとめる。 心中と異なって、少子化は、嬰児殺の減少の説明にはならない。80年代以降の社会変化として、私が注目するのは、「できちゃった婚」の増加である。未婚の母に対する社会的なマイナスイメージも、その実家に対する「世間の冷たさ」も大幅に減少してきているようである。かつては、「偏見」や「差別」といった言葉が使われるほどに、厳しい社会的非難があったが、「できちゃった婚は普通」とウソブク若者さえ出現している。その親の世代も、さらに上の親の世代に比較すれば、抵抗感は低くなっているようである。そのことを前提にすれば、「できちゃった」段階で、自分一人でにせよ、親の支援を仰いでにせよ、生んで育てるということが容易になったと言えるであろう。 この解釈は、何らの調査にも基づいておらず、確かではないことに注意する必要はあるが、今のところほかの解釈は考えられない。P29 子殺しが減ったのは、良いことである。 いままで、親殺しより子殺しのほうがはるかに多かった。 戦前にさかのぼれば、子供はかんたんに殺されており、親殺しの5倍くらいはあった。 しかも、子殺しの刑罰は軽かった。 それは今でも変わっていない。 放蕩者を殺した場合には、3分の2に執行猶予が付いており、実刑でもせいぜい3〜4年である。 当サイトは、社会が非暴力化しているといってきた。 その理由は、肉体労働の価値が下がり、労働に肉体が不要になったからで、ホワイトカラーは殺人を犯すまでに至らないと考えている。
有職者は、自営業者が88人で、専門職が12人、会社員が29人である。 ホワイトカラーは専門職と会社員の合計41人であり、全体の3%くらいである。 今後も、肉体労働から頭脳労働へと転じていくだろうから、ますます暴力が嫌われるようになる。 そして、肉体労働に留まらざるを得ない人と、頭脳労働者との格差が広がり、追い込まれた人が暴力に走るだろう。 本書も、貧困が犯罪を生むといっている。 貧困が犯罪を生むというのは、古典的な原則かもしれないが、いつの時代も先の見えない貧困は滅入るものだ。 筆者は、殺人事件の全体像を、次のようにまとめている。 以上、様々な殺人事件について描写した。全体像をまとめれば、殺人は、@戦後減少し続けている、A家族がらみである場合が過半数を軽く超えている、B底辺社会で、失敗人生の未に起きてしまっていることが多いといったことがわかるであろう。マスコミ報道から受けてしまう印象と大きく違うことを確認してほしい。P163 配偶者間の殺人も、かつては夫が犯人であることが多かった。 しかし、1980年以降の15年間では、夫が犯人は15人、妻が犯人は26人と逆転している。 これも女性の台頭の反映だろう。 本書はそのほか、興味深いさまざまなことを言っているが、それは本書を読んでもらうとして、次の2つを特記しておきたい。 犯罪報道において、マスコミが作為的な情報を流すことを、筆者は問題視している。 ある事件に1つの流れができると、それ以外の情報を報道せず、一種の報道ファッシズム状態になってしまう。 犯罪報道を正確にすれば、犯罪の手口を知らせることになるので、一般の人には知らせなくても良いというのが、報道なのであろうか。 しかし、正確な報道は必要不可欠である。 市民に知らせないと、正しい情報を公開して、市民が判断するという、民主主義の根幹が揺らぐ。 我が国には、民主主義が根付いていないのであろうか。 筆者は国民に知らせない例として、刑務官の取り扱いをあげる。 刑務官は現場だけの公務員で、出世の見込みはなく、一生にわたり官舎住まいである。 統計数字の分析と、直接に見聞きした経験から言えば、彼ら(=刑務官)は本当によくやっていると思う。むろん問題点は残されているが、総合判断である。 ここで一つ素朴な疑問が浮かぶであろう。彼らが、国民に知られることもなく、献身し続けることが、どうしてできるのであろうかということである。とりわけ刑務官の仕事は隠されている。彼らとて、皆から尊敬されるまでいかずとも、せめて誰かによくやったと言ってもらいたいものであろう。 実は、ここには、見事な仕組みがある。それは、天皇制である。皇室の宮様が、刑務官たちを称え褒章を与えればよい。天皇家は意味づけとしては国民の代表である。そして、この方法では、具体的な国民は依然として何も知らないでもよい。知らないで安心してもらう仕組みは、見事にできているわけである。これは、昨日今日にできたものではない。P210 この仕組みを見事と言うべきか? 安全な我が国は、安全と引き替えに、市民の確立はなく、民主主義が存在しないのか。 本書は、我が国の農村共同体的な資質を、いやというほど知らせてくれる。 自立するということは、神を殺すことだから、安全も市民が守ることだ。 そのためには、全員が正確な情報を知らなければならない。 お上に守られて、何も知らない安全が良いか。 危険と隣り合わせながら、自分は自分が守るという近代社会が良いか。 多くの人は、おそらく安全を選ぶだろう。 しかし、本サイトは危険であっても、決然として自立の道を選ぶ。 (2009.7.29)
参考: M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 鈴木邦男「公安警察の手口」ちくま新書、2005 高沢皓司「宿命」新潮文庫、2000 見沢知廉「囚人狂時代」新潮文庫、2000
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