匠雅音の家族についてのブックレビュー    地獄の季節−「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所|高山文彦

地獄の季節 
「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所
お奨め度:

著者:高山文彦(たかやま ふみひこ)−新潮文庫、2001 ¥552−

著者の略歴−1958年、宮崎県高千穂生れ。学生時代は探険部に所属。1995年と1998年の二度にわたり雑誌ジャーナリズム賞の作品賞を受賞。1999年刊の「火花 北条民堆の生荘」で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を受賞。他の作品に「いのちの器」「『少年A』14歳の肖像」「運命(アクシデント)」「愚か者の伝説 大仁田厚という男」など。
 1997年におきた14才の少年による、殺人事件を追ったルポルタージュである。
本書は、雑誌「新潮45」の1997年8月号から11月号まで、4回にわたって連載されたものを加筆、修正して上梓された。
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 筆者の経歴を見ると、1958年生まれとあり、まだ40才を少し超えたばかりの人物である。
もちろん本書を執筆していたときは、まだ40才に手が届いてはいなかった。
若いということは、こんなにも愚かなことなのだろうか。
高齢者と若者が対立した場合、私は若者の意見に親近感をもつことが多かった。
それは高齢者の意見は、懐古趣味に過ぎないからだ。
そして、若者の意見のほうが、現代社会をよくとらえていると感じるからだ。

 しかし、本書を読む限り、年齢が若いことは思いこみとしか言いようがない。
筆者の思わせぶりな発言は、自己陶酔に落ちいているに過ぎない。
筆者は<大宅壮一ノンフィクション賞>や<講談社ノンフィクション賞>を受賞していることを見ると、
こうしたノンフィクションを評価するシステムが壊滅状態と言うことなのかもしれない。

 筆者の問題点は、独自の評価基準をもっていないことである。
そのため、表面的な現象だけから近代を酷評する。
共同体が失われたことを、この事件のすべての根源にしてしまう。
共同体が生きていた時代には、隣近所の付き合いがあり、
人間はもっと人間らしく生きていたから、こんな事件はなかったというわけだ。

 高度経済成長の、バブル経済の、公共投資一辺倒の「近代」にしがみついてきた亡霊たちが、いまもなお埋葬されることなく、列島をのし歩いている。生贅にされた多くの人びとの背中が、轍にうずくまっている。惨殺された子どもたちの小さな背中が見える。少年Aの痩せた薄暗い背中も、すぐそこに見える。P16

 ランボウを引きながら、近代批判を基調とする本書には、近代の意味が理解されているとは思えない。
だいたいランボウの詩を、今日のわが国の状況にあてはめて、近代を同日に論じることはできないだろう。
しかも、それで少年Aの犯罪の背景を語ることは、無謀も良いところである。
本書は、共同体の崩壊を理由にすれば、すべてのことが説明されると考えている。
共同体が復活すれば、こうした犯罪は雲散霧消するとでも、考えているのだろうか。

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 近代の進行と同時に、凶悪犯罪は劇的に減った。
戦後には、当初2500件近かった殺人事件は、今日1200件程度に半減した。
また、連続殺人つまり1人が多数を殺す事件も、明治時代に多かったのであり、現代人はずっと凶悪性がへっている。
肉体労働の時代には、犯罪も激しくて一度に多くの人を殺したり、残虐な殺人も多かった。

 今日では肉体が非力化するのと平行して、肉体を痛める事件は減ってきた。
そうした近代認識は、筆者にはまったく届いてはいない。
ただ、猟奇的な事件が発生したので、読者の潜在意識に訴えるような、迎合的な文字を並べている。
これがルポルタージュであろうか。ノンフィクションであろうか。

 神戸県警の未解決事件は、グリコ森永恐喝事件、朝日新開阪神支局襲撃事件、三月の竜が台の連続通り魔事件もある。P114

と言っておきながら、筆者はこの事件だけにこだわる。
殺された人間にとっては、どう殺されようとも、地獄に違いないはずである。
他の殺人事件は、地獄の季節ではないと言うのだろうか。

 ニュータウンこそはブルーカラーの人びとが夢のマイホームを手にいれ、貧困や差別から解放され、因習深い大家族、山村共同体の記憶に別れを告げて移り住んだ新天地だった。P212
 
 という文字は、筆者のどこを通ってでてきたのだろうか。
近代は庶民を解放し、女性を解放した。
そして今、子供を解放しようとしている。
だから少年Aのような人間が生まれたのである。
女性解放と同時に、年齢秩序が崩壊したことを、忘れてはいけない。

 時代の変遷は、すべてを美しく甘美にすることはない。
人間が不可解な存在である以上、そしてその不可解さが人間の多様性を保証するものである以上、いつの時代にも反社会的な人間は存在する。
今まで子供は、大人から抑圧されてきた。
だから子供は犯罪に走らなかったでけである。

 女性が抑圧から解放されると、男性と同様の犯罪に走るように、子供だって犯罪に走るのだ。
フェミニズムは多くの女性を解放したが、女性の犯罪者もうみだしたのだ。
自立するとは、すべての決定権を自己のものにすることである。
そのなかには必ずしも正しい社会性と、一致するとは限らないものがある。

 犯罪に走る子供が生まれるから、その反対には天才といわれる子供が生まれるのである。
コンピューターを扱うことにかけては、子供は大人より遙かに優れている。
コンピューターを技術だとみなして、加齢が人間性を高めると考えている限り、時代が突きつけていることはまったく見えないままである。

<さあ、ゲームの始まりです 愚純な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない  汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを SHOOLL KILL 学校殺死の酒鬼薔薇>

は、現代社会を何とシャープにとらえていることか。
愚鈍なマスコミや本書よりはるかに、時代が見えている。
だから過激な犯罪に走ったのである。

 本書でも述べられているが、筆者を含めたマスコミに属する人間たちの傍若無人さ。
報道の自由といった大義名分で、個人の生活を破壊していく。
作家性が必要であるはずのルポルタージュでありながら、
本書のような叙情に流れた、お為ごかしの文章が反乱する限り、子供の反乱には対処できないだろう。
そして、時代の意味を理解することはできない。
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参考:
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年


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