匠雅音の家族についてのブックレビュー    子どもが忌避される時代−なぜ子どもは生まれにくくなったのか|本田和子

子どもが忌避される時代
なぜ子どもは生まれにくくなったのか
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著者:本田和子(ほんだ ますこ)  新曜社  2008年 ¥2800−

 著者の略歴−1931年,新潟県に生まれる。お茶の水女子大学卒業。同大学助教授,教授,学長を経て,お茶の水女子大学名誉教授。専門:子ども学・子ども史・子ども文化論。著書:『異文化としての子ども』(紀伊囲屋書店,ちくま学芸文庫),『子どもたちのいる宇宙』(三省堂),『少女浮遊』『女学生の系譜』(青土社),『子別れのフォークロア』『ものと子どもの文化史』(勁草書房),『フィクションとしての子ども』(新曜社),『子ビもの領野から』『映像の子どもたち』(人文書院),『子ども100年のエポック』(フレーベル館),『変貌する子ども世界』(中公新書),『交換日記』(岩波書店)ほか。

 77才の老女に、子供対大人という発想から抜け出せというほうが、無理なのだろうか。
筆者はある時は、親との関係で子供という言葉を使い、ある時には、未成年者もしくは年少者という意味で、子供という言葉を使っている。
子供の定義をせずに論を進めているので、散漫な論になってしまった。

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 子供という言葉を定義せずに、子供対大人と論をたてれば、マスコミなどに流通する、通俗的な風説に流れるのは自明のことである。
少子化という現象をとらえて、子供が忌避されているというのは、同じことをいったにすぎない。
子供は近代にはいるときに発見されたのだ、というアリエスの言葉を知っているようだが、子供とは何かに関しては考察が進んでいない。

 生物的にいえば、子供とはいまだ繁殖力をもたない生き物である。
しかし、今日にいう子供は、生物的な意味で使われるのではない。
社会的に子供とは、大人への過程にいる生き物に過ぎず、子供と大人を区別することはできない。

 大人になるのは何歳かといえば、社会的には20才からだが、それには生物的な意味はない。
だから、それぞれの社会で、成人と見なす年齢は違う。
近代以前では、生物的な成体になる年齢と、社会的に成人と見なす年齢は近かった。
つまり、精通・生理があれば成体だから、その頃をもって成人と見なした。

 精通・生理がある年齢とは、おおむね13才前後だから、この頃に成人式を行い、成人と扱い始めた。
それは武士たちだって、15才になれば一人前の戦闘員と扱っていたのだし、農民たちだって一人前の労働者として扱った。
それが生物としての人間の生理にしたがった、子供と大人の区別だった。

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 筆者は、よく勉強をしており、江戸後期から近代の家族現象を細かく書き連ねている。
そのせいか明治になって、江戸時代の「家制度」が解体されて、「近代家族」が誕生したという言説に疑問を投げかけている。
しかし、筆者は避妊の普及について、まったく考察しておらず、少子化を国家や民族の立場からみている。
筆者がよく勉強をしているだけに、全体主義的な論調が漂う本書は、何だか不気味な感じがする。
 
 生き物のなかの「人」という種を、絶滅から守る、と、こうした目的に思いを致すとき、男女の性的営みもまた、単なる個人的な悦楽を超える。そして、その果実たる「子ども」の役割も、種を維持しその歴史を継承する者として再確認されることだろう。そして、そのゆえに、「産み育てる」営みは、純粋に私的選択に任された私的行為ではなく、大いなる目的に奉仕する「公的」な営みとして、ふさわしい位置づけと価値とを確保することができるのではないだろうか。
 子どもから失われかけている「公共的意味」の回復は欲求レベルの問題であるにまして認識レベ ルの問題である。男女間、あるいは母子間の、衰退の一途をたどるエロスを回復させるにもまして、「子どもの公共性」 を改めて認識し直すことが肝要である。P63


 「産み育てる」営みは、「家のため」あるいは「国のため」などではないと言いながら、筆者の筆致は全体主義的な臭いを漂わせている。
前近代から近代への転換が、何を意味し何を作りだしたか。
そして、人間という生物と、近代はどう係わるのか、といった考察がかけているので、論点がさだまらず恣意に流れている。

 筆者の全体主義的な体質からすれば、子供が不要になったことも判らないだろうし、ましてや子供はペットであることにも、思い至らないだろう。
大人たちの意識の問題として、筆者は子供の問題を考えているが、人間が生かされている産業構造には目が届いていない。

 「『恐ろしい子ども』との遭遇」という章をたて、酒鬼薔薇事件を援用しているが、子供の凶悪事件は昔からある。
凶悪性は人間の本性に潜むものであり、子供だからという理由で、凶悪事件を犯さないことにはならない。
「戦前の少年犯罪」が声を大にして言うように、むしろ戦前の子供たちのほうが凶悪だった。

 筆者は、刑法犯少年の統計をグラフ化して掲示していながら、少年犯罪が凶悪化しているがごとき論にはしっている。
みごとにマスコミなどの通俗論にのってしまっている。
ここで問題にすべきは、少年たちが非暴力的になりながら、なぜ社会は事実を見ようとしないのか、というだろう。

 やはり子供なるものの定義をしてから、論を立てるべきだろう。
子供の定義をすれば、注目すべきは子供の問題ではなく、成人社会のほうであることに気づくはずである。
いつの時代にあっても、子供は親の個人的な営みから生まれ、それ以下でも以上でもない。
(2008.12.16)
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参考:
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
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黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
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高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
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ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
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ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
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赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991


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