匠雅音の家族についてのブックレビュー    母親の社会史−中世から現代まで|イヴォンヌ・クニビレール

母親の社会史   中世から現代まで お奨度:

著者:イヴォンヌ・クニビレール−筑摩書房、1994年  ¥4500−

著者の略歴−1922年生まれ。1945年歴史学教授資格取得、1970年国家博士号取得。エクス・マルセイユ大学名誉教授。主な著書:『人文科学の誕生』『証言集・われら女性ソーシャルワーカー,1930−1960年』。図版担当:力トリーヌ・フーケ−歴史学教授資格取得老。エクス=アン=プロヴァソス高等師範学校受験準備学級教授。二人の共著:『何のための美しさ』『女性と医者たち』
 母親に歴史はあるか、と始まる本書は、母親なる概念をめぐる研究である。
母親は私生活に属しているという。
だから母親たちは歴史をもたない。
出生率の低下が懸念され始めたとき、子供を産んだ存在としての人間に脚光が当てられた。
それが母親であり、それがゆえに、母親の政治的な重要性が認識されたのは、
19世紀の終わりになってからである、と本書はいう。
子供の誕生」と同様に、母親の発見も近代のことである。
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 中世にあっては、女性は自分を表現することが少なかった。
そのなかでキリスト教は、女性を2つの面として位置づけた。
まず誘惑者として、つまりイヴである。
そして、イエスの母つまり処女マリアである。
この時代、子供はたくさん産まれ、かつたくさん死んだ。
母子を取り巻く事情は、現在とは大きな違いがある。
階級というものが厳然として存在したので、それぞれの階級によって、子供に対する態度はひどく違っていた。
 
 16、17世紀には、出産と母親の役割に関する男性の著作が増えてきたが、それらには、出産が本質的に女の仕事であるという主張が明らかである。危険な場合には、都市階層あるいは富裕階層は産科医に頼ることができたけれども、大多数の女たちは、そして危険が遠ざかったときにはすべての女たちが、昔ながらのならわしや自分たちの知識をよりどころとした。P69

 人間が生きていくためには、最低限のこととして、食料を手に入れなければならない。
そして、時には外敵と戦わなければならなかった。
生きている人間が生き続けていくことを個体維持と呼べば、
個体維持は腕力に秀でた男性がその多くを担い、女性は男性より小さな部分を担った。
しかし、人間はその人が生きるだけではない。
子孫が生き続けなければ、その当人の老後も生きていくのが怪しくなる。

 個体維持のためにも、種族保存は不可欠である。
そして種族保存は、もっぱら女性の役割だった。
女性は個体維持における非力さを、種族保存を担うことによって担保し、
男性に拮抗する発言権を確保した。
そのため出産の時には、女性の社会性を充分に発揮することが促された。
出産こそ、女性による女性だけの仕事だった。
ほとんどの社会では、出産に男性が立ち会うことはない。
しかし、18世紀頃から、男性の産科医が出産の場に入り始め、やがて独占するに至る。

 子供を育てることについても、階級差があった。
 
 農村あるいは都市の職人たちのあいだでは、子どものしつけに女の共同体が協力していたのであるが、上層階級では母親たちに子育てが一任されることはほとんどなく、中流家庭であっても、離乳が完了すると、使用人が 雇われて乳母と交代した。P142

 現代では、少ない子供に山盛りの愛情を注ぐ。
しかし、つい最近まではそうではなかった。
多すぎる子供は、生まれてからも捨てられることがあったし、
間引きと称して殺されてしまうこともあった。
また、子供は労働力であり、親の老後を見るためのものだった。
だから、親子の愛情と言うより、その有用性が期待された。
親子関係は、現在とはまったく違うものだった。

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 母性愛は、つねに存在していた。どんな文明、どんな階層にも、自分の子どもを愛し世話をした女たちは、つねに存在した。反対に子どもを好まず、世話をしない女たちもいた。しかし、こうした態度が、哲学的な考察をうながすことはなかった。一方で、母性愛は当然のことだと思われていた。つまり、動物が子どもを育てるのと同じことを人間もしているだけで、特筆するべきものはなにもないというわけである。他方で、子どもを乳母や召使いに預ける女たちもいたが、だれのひんしゅくをかうこともなかった。
 だが、18世紀の末に新しい傾向が現われた。人々は、突然、母性愛とその性格を、重要とみなすようになった。1750年頃から、哲学者、医師、政治家たちは、しだいに母親の役割について、さかんに語るようになっていく。P179


 いわばこの時代になって、母性愛なるものが発見された。
子供を産み育てるのが、本能とみなされた時代には、子供は育つものであり、母親は補助者に過ぎなかった。
ここから母性愛が礼賛され、母親の教育にも期待が寄せられるようになる。
しかし、現実は過酷である。
庶民の女性は働き続けなければならず、過酷な毎日のなかで、母性をも引き受けなければならなかった。

 強調しなければならないのは、農村では母性を豊饒な大地になぞらえる伝統的しきたりがいぜんとして残っていたことである。そしてこのしきたりが体系化され、「民間伝承」とよばれるものを形成する傾向さえみられた。女は肥沃な田畑であり、男という鋤で耕され種を蒔かれて、何よりもまず子どもを産まなければならない。
 子どもたちは田畑を耕作するために必要とされ、老齢と病気に備える唯一の安全対策であることに変わりはない。一部の地方(特にノール県)で、「多産な女」かどうかを結婚前にたしかめたがったのは、こうした理由からである。大部分の村では、居酒屋の奥まったところに若いカップル用の「特別席」もしくは「小部屋」があって、そこで2人は村人全体から暗黙の了解を得て婚前交渉を持つという習慣が19世紀の100年間にわたって存続した。P277


 母性本能の礼賛は、やがて終焉を迎える。
それまで子供を生むこと、子供を育てることは、女性の本能されたが、
人工栄養の登場や医師による育児の指導が始まり、子供が女性の手からはなされていく。
それは同時に、幼児の生命本能への無条件的な信頼の終焉を意味していた。
子供への教育が不可欠とされ、子供を放置したままでおくことはなくなった。
やがて育児科学が勝利した。

 現代社会では、子供を産むことは自分の意志で決めることができる。
子供を自分の分身と見なすことすらできる。
しかし、母親の歴史は今始まったばかりである。
次のようにいって、本書は締めくくられている。

 現代について新たにいえることは、母親は自分で考えているほどには自由を持たないということだ。彼女たちの自由はまだ多くの場合に形式的であり、経済的条件や社会的制約、母親たち特有の無気力によって制限されてしまう。だが彼女たちの自覚も明確になってきた。これまでの母親たちと違い、母性についてしだいにはっきりした意識をもつようになっている。いまや彼女たちは、自分が子どもを望むかどうか、なぜ子どもが欲しいのか、いつ、どこで、どうやって産むのか、と考える。さらに自分が子どもに持つ感情、子どものために背負いこむ負担や責任、子どもを愛し育てながら自分が与える影響力、父親の役割等についてあれこれ考えるのである。
 今後母親たちの行動を指図するのはもはや不可能となるであろう。彼女たちを圧迫する決定的なものが何かを理解し、その方向を変える意欲をみつける上で、母親の歴史は彼女たちの助けになるかもしれない。しかしその方向、その目的を決めるのは母親たちである。

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参考:
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
須藤健一「母系社会の構造:サンゴ礁の島々の民族誌」紀伊国屋書店、1989
エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書房、1991
斉藤環「母は娘の人生を支配する」日本放送出版協会、2008
ナンシー・チョドロウ「母親業の再生産」新曜社、1981
石原里紗「ふざけるな専業主婦」新潮文庫、2001
石川結貴「モンスター マザー」光文社、2007

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
増田小夜「芸者」平凡社 1957
岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997


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