匠雅音の家族についてのブックレビュー    心的外傷と回復|ジュディス・ハーマン

心的外傷と回復 お奨度:

著者:ジュディス・ハーマン、みすず書房、1999年   ¥6、800−

著者の略歴−ニューヨーク市に生れる。1968年,ハーヴァード大学医学部卒業.現在,ハーヴァード大学医学部精神科臨床準教授,マサチューセッツ州ケンブリッジ病院の精神科医としてはたらきながら,同州サマーヴィル市の女性精神保健共同体で精神医学ディレクターもつとめる.著書は本書の他に「Father-Daughter Incest」(Harvard University Press,1981.C・ライト・ミルズ賞受賞)がある.1994年,著者は本書によって,アメリカ精神医学会およびアメリカ精神医学と法学会からマンフレッド・S・ガットマッカー賞を受賞した。
 本書はアメリカのフェミニズムが、打ちたてた金字塔であろう。
大きな事故に遭えば肉体が傷つくように、過酷な体験をすると精神も傷つく。
そして、心の傷は屈折し、他人から理解されることなく、当人を苦しめ続ける。
とりわけ幼少時からの長期にわたる虐待は、想像もつかないほど深刻な禍根を心にのこす。
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 本書は、性的および家族的暴力の被害者を相手として、
20年にわたって積み重ねられた研究の成果である。
主として強姦された女性の回復を扱って、強姦がいかに人間性を傷つけ、その後の生活を歪めてしまうかを論じている。
強姦とは同意なしの性交である。
同意に基づいて行われる性交が、当事者たちに大歓迎されるのにたいして、強姦は明らかに犯罪である。

 筆者は自らもフェミニストだと名乗り、この研究はフェミニズムの視点から行っていると、明言している。
それだけなら筆者の研究は、それほどの影響力を持たなかっただろう。
それがベトナム戦争からの帰還兵のあいだにも、筆者の記述するのと同様な行動が見られた。
そこで本研究は、暴力が心に及ぼす影響を考えるものとして、脚光を浴びることになった。
しかし、本書の力点は、あくまでも性暴力にあるようだ。

 レイプが犯罪だというのは机上の空論だったことを女性はすぐにさとらされる。実際にはレイプを構成する与件は女性の側の侵犯体験の程度ではなく、男性に許される強制のレベル以上に出ているかどうかにすぎない。このレベルは実に高いことがやがてわかる。法学者キャサリン・マナンのことばを借りれば「女性の目から見ればレイプは禁じられてなどいない。ルールが設定れているだけである」。これまで法が定めてきたとおりの強姦罪を構成する与件は、加害者が常な物理的な力を行使した場合であって、この与件を満たす力は通常女性を恐怖に陥れるのに分な力をはるかに超えている。P108

 農民という被支配者は、土地という生産手段を持っていた。
そして、庶民の家は、そのまま生産組織であったので、自給自足の生活だった。
各自が自給自足できる環境では、間接支配は成り立たない。
支配は常に直接的な暴力に支えられていた。
そのため農耕社会までは、暴力を用いて自分の意志を貫徹することは、是認されていたように思う。

 支配の形態自体が、あからさまな暴力にもとづいていた。
だから、個人間においても暴力はしばしば行使された。
暴力は男性間で有意なものとされ、肉体的な力の強いことが、男性社会での優位を示した。
そのため、暴力に対する抗体を多くの人たちが持っていた。
ところが、情報社会になって、肉体労働から頭脳労働へと転換するにおよび、肉体的な力の行使=暴力は表から消え去った。

 人間は肉体によって生きているにもかかわらず、肉体的に強いことの価値がほとんど消え始めた。
暴力の本質が考察されずに、暴力が全部的に否定されていった。
人間は暴力=肉体的な力とは、無関係な存在であるかのように考え始めた。
肉体労働とは暴力の平和的な表現だったが、
頭脳労働が優位するにつれて、肉体的な強力さが無価値化した。
ここで暴力に対する抗体が消失したのである。
 
 強姦はもちろん悪である。
しかし、農耕社会といった小さな共同体では、強姦したらどのような結末がくるか、男たちは判っていた。
女性は男性の財産でもあったから、
他の男性の所有たる女性を強姦することは、他の男性の財産を傷つけることでもあった。
そのため、男性たちは他の男性の財産には、手を出しにくかった。
そして、農耕社会では女性も労働力だったから、けっして男性のいいなりにはならなかった。

 共同体といった身分制の縛りから解放されると同時に、人は個人へと自立を促された。
女性は男性の財産ではなくなり、個人となったので、所有されるという保護がなくなった。
そのために、男性から簡単に攻撃されるようになった。
そして、同時に女性は、労働から切りはなされ、弱い存在へと落ちていった。
つまり暴力への免疫がなくなった。

 親密な性的行為は性的外傷の生存者には特別の障害物となる。昂奮とオーガズムという生理学的過程は侵入的な外傷性記憶によって汚染されていてもふしぎではない。性感にも性的ファンタジーにも同様に外傷の残り滓が侵入してくるかもしれない。性的な悦びの能力を取り戻すことはむつかしい問題であり、パートナーといっしょにこれをやりとげることはさらにむつかしくさえある。外傷後の性的機能障害の治療技法はすべて生存者がその性生活のすべての面にわたるコントロールを強めるようにするという原則にもとづいて行われる。このコントロール強化は、最初はパートナー抜きの性行為によるのがいちばん早道である。パートナーを参加させる場合は双方の高度の協力とかかわり合いと自己規律とが必要である。P326

 情報社会という観念が支配する時代になることは、もはや自明であり避けることはできない。
暴力への抗体が消失するので、本書のような分析が今後ますます要求されうだろう。
しかし、同時に問題が山積みされているのも、またはっきりとわかる。
 
 犯罪の被害者を救済するということは、ここでは金銭や肉体的な問題ではない。
もっぱら精神的な救済が語られる。
ところで、心の傷をどう回復するかというのは、心に標準を設定していることだ。
工業社会での大量生産が、標準的なものを基準にしてなされたように、
人間の心もまた標準的なものがあると、無前提的に前提することに他ならない。
そして、回復するべき標準は、他人という人間の行為によって可能だと、前提していることを意味する。

 商品経済が支配する社会で、人間が他人の心を扱うことは、有償で行われる。
つまり心的外傷からの回復は、心を商品化することに他ならない。
フェミニズムは性の商品化に反対したが、フェミニズムはここにおいて心を商品化した。
いままで心はお金で買えないものだった。
それが本書の視点は、心もまたお金が支配することを認めたことになる。

 筆者はお金で心が買えるとは言っていないし、心を扱って真摯であることは充分にわかる。
しかし結果として、トラウマ治療はお金に心を売り渡したのだ。
それは非難されるべきことではない。
問題は、心的外傷の回復にあたって、どのようにお金を使うかである。

 本を出して5年経った。その問に暴力の犠牲者は何百万人ふえたことだろうか。ヨーロッパでもアジアでもアフリカでも戦争があった。戦争が行われているうちに、一般住民を含む大規模な残虐行為が犯されて、暴力の圧倒的な衝撃力が国際的な注目の焦点となり、心的外傷が実に世界的規模の現象であるという認識が育っていった。同時に、戦闘員と市民との区別の遵守が大幅に破られ、女性と児童とに対する暴力が政治的性質を持っていることがますます明らかとなつた。(あとがき)

 時代は暴力がより激しく行使される社会へと、進んでいるという筆者の認識が、本書を貫くものだ。
筆者の認識は、時代認識としては誤りであっても、臨床的には基本的には間違いではないだろう。
情報社会化は誰にも止められないとすれば、
本書の果たす役割は高まることがあっても、下がることはないだろう。

 人間が自然から離れる、それが近代だったし、今後はますます自然から離れる。
暴力という肉体を見なくなる。
肉体という暴力装置を、観念で回復しようとするのは、不可避ではある。
暴力への免疫の消失は、心のケアを呼び起こす。
しかし、暴力の否定は良いことばかりではない。
人間が肉体によって生きている限り、そのつけは必ずやってくる。
男性は勃起の契機を失い、女性は妊娠・出産におびえることがなければいいのだが。
(2002.7.5)

追記
 本書はアメリカのフェミニズムが、打ちたてた金字塔だとは思うが、多くの批判があることも事実である。
2〜3歳の幼児が、父親に強姦されたという訴訟が頻発し、家庭崩壊を招いた。
ジュディス・ハーマンらがその指導者だったことから、本書は厳しい指弾も受けた。
矢幡洋の「怪しいPTSD」に、そのあたりが詳しいので、ぜひご一読下さい。
(2010.01.27)
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参考:
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