著者の略歴−1918年、イギリス、リーズの労働者の家に生まれる。リーズ大学卒業後、1940−46年、英国砲兵隊に属し、北アフリカ、イタリアなどで勤務。戦後、1956−7年、ハル大学成人教育部スタッフ、59−62年、レスター大学英文学講師、62−73年、バーミンガム大学の英文学教授、現代文科研究所(Center for Contemporary Cultural Studies)の所長を勤める。70年よりユネスコのスタッフになり、マス・メディア宣言(国際情報新秩序)の作成などに努力、高等教育、放送(ピルキントン委員会メンバー)、青年問題、演劇などの諸団体にかかわり、精力的に社会活動に従事。著書に「オーデン序説」(1951、邦訳晶文社) イギリスでは1957年に本書は発刊されており、すでに古典の領域に分類される。 労働者階級を対象にした分析は、筆者がその階級出身であることからか、なかなかに鋭い。 というより外部からの分析ではなく、階級の内部への冷静な共感にもとづいたものである。 読み書き能力を体得したことが、労働者の文化にどのような影響を与えたか。 週刊誌、大衆小説、流行歌など、話し言葉を変えていった経緯を、本書は分析する。
誰が労働者階級かと始まる本書は、大衆社会現象がおき、すでにイギリスには労働者階級はいないという風説に反対する。 いまでも人口の75パーセントを占めるのは、特有の性格をもった人たちであり、それは中産階級とはちがうとのべる。 わが国では、労働者階級にたいする対概念は、上流階級かと思うが、ここでは違うのである。 イギリスの階級区分は、意識のうえで次のように分けられている。 上流階級が3% 中産階級が25% 労働者階級が72% 労働者階級は、世代を越えてその気質がうけつがれる。 労働者階級は健康だが、比較的早死にである。 洗練されてもいないし、知的でもないが、両足を大地にしっかりとつけている。 陽気に腹から笑う。 しかし、多くの物書きは、労働者階級にロマンチックな思い入れをするか、労働者階級の潜在的な可能性は素晴らしいと思っているが、それは哀れみに過ぎない。 外部の人間が、特有に持ちたがる親切心とは、哀れみの裏返しだという指摘はあたりまえだが、なかなかもてるものではない。 人生の本当の仕事は結賭して、家庭をもってから始まるのだという実感を揺がすことは、ほとんどない。それはある意味では、学校時代には決してなかったような、一種の「生活」ではある。この期間に人は、仕事場でのゴシップやおしゃべりから、人生の実際とその意味を、たっぷり学習するわけだ。楽しまなくちゃ損だ。しかし、本当の人生は、面白さといったことは別にして、結婚なのだ。男にとっても女にとっても、労働者階級の人生における主要な分水嶺は結婚なので、仕事、住んでいる町をかえるとか、大学にいく、職業の資格をとる、といったことではない。P48 労働者階級の子供も学校へは行く。 しかし、「ハマータウンの野郎ども」でもいっていたが、学校は彼等の精神性に大きな影響を与えない。 彼等は地元でそだち、仲間を大切にしてくらす。 やつらとは違う俺たちというわけだ。 どこへ行ったって同じだし、男は男、女は女である。 性別役割の意識が強く、男性の仕事と女性の仕事がわかれている。
このあたりは、わが国の職人家族とよく似ている。 おそらく肉体労働が支配的なところでは、同じような資質が形成されるのだろう。 工業社会が男女別役割の社会である所以である。 イギリスの労働者階級は、プロテスタントである。 子供を日曜学校へやり、牧師さんにはそれなりの敬意を払う。しかし、熱心な信者ではない。 宗教は一種の気休めでしかない。王制にかんして敵意を抱いているわけでもない。 ただ熱意がないだけである。仕事中の会話は、スポーツとセックスである。 貯金といったものはなく、といっているが、これは1957年当時のことだろう。 わが国の労働者はとびきり貯金が好きだが、イギリスでも月賦での買い物が普及したはずだから、いまでは貯金をするようになっているだろう。 しかし、週給での生活は、計画的なお金の使い方を覚えさせない。 イギリスでは1840年代まで、労働者階級に字の読み書きを覚えさせることは、たいへん論争的な主題だった。 保守的な人間からは、字を読む労働者自体が、反秩序の存在である。 労働者階級の読み書き能力の拡大は、知識の増大へとつらなり、それはそのまま反乱へと連なる恐ろしいものと感じられたのである。 さまざまな人たちがそれぞれの立場で、読み書き能力に対応したが、やがてマスメディアが労働者を領有していく。 本書で筆者が強調していたのは、母親像や子供を甘やかすことなど、わが国の庶民によく似ている。 多くのイギリス紹介の本は、庶民の話ではなく、中産階級よりうえの紳士・淑女の話である。 労働者たちも、資本主義の恩恵を受け、健康状態も良くなり、寿命も延びた。 消費物資の分け前は多くなり、教育を受ける機会も増えた。 官僚や知識人になったりする人もでた。 しかし、彼等は身体の芯では、労働者階級の出身であることを維持している。 だから、ある時になるとその下地がでるのである。 そういう筆者であるが、決して嫌みには聞こえない。 イギリスの実態を知らせてくれる良き書物である。
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