匠雅音の家族についてのブックレビュー     大衆の反逆|ホセ・オルテガ・イ・ガセット

大衆の反逆 お奨度:☆☆

著者:ホセ・オルテガ・イ・ガセット(桑名一博訳)−−白水社、1975年(絶版) 
神吉敬三訳:ちくま学芸文庫 1995年 ¥880−

著者の略歴−1883年マドリードに生まれる。15才の時に、米西戦争でのスペインの敗北を体験する。スペイン市民戦争で生地を離れるまで、マドリード大学の哲学教授をつとめた。第二次大戦後にスペインに戻り、1955年に72才で死去した。 
 わが国で出版されたのは1975年だが、
本国で本書が形になってきたのは1920年代である。
今日でこそ、大衆社会化現象といわれるが、当時大衆という概念を自覚している者は少なかっただろう。
大衆とは近代人のことである。
そう言うと、ちょっと驚くかもしれないが、本書に従えば近代人とは大衆なのである。
いや本書に限定せずに通説に従っても、大衆とは近代人のことだと言っても良いだろう。
TAKUMI アマゾンで購入

 群衆という概念は量的であり、かつ視覚的である。その性質を変えないで群衆なる概念を 社会学の術語に翻訳してみよう。そうするとわれわれは社会的大衆という観念を得る。社会 というものはつねに、少数者と大衆という二つの要素からなるダイナミックな統一体である。P52

 人間を最も根本的に分類すると、次の二種類に分けられることが明らかだからである。すな わち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人びとであり、他方は、自分にはな んら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己をたえず保持することで、自 己完成の努力をせずに風のまにまに浮かぶブイのように暮らす人びとである。P54

 筆者は少数者と多数者の混在が歴史であり、近代以前は優れた少数者によって統治されていたという。
それが近代つまり産業革命を経ることによって、少数者に代わって多数者つまり大衆が、社会の前面に登場したという。
大衆とは緊張感を欠いた存在で、大衆の時代とは野蛮が支配する時代だという。
筆者は貴族という言葉を用いるが、世襲貴族を表すのでもなく、貴族という身分を表すのでもない。
自意識を持った少数者のことで、次のようにも言う。

  国家という船は市民階級とは非常に違った人びと、感嘆すべき勇気と支配力と責任感を持った人びと、つまり貴族の手によって中世に建造された。P167

 筆者が言っていることは、ほぼすべて正しい。
本書が執筆されてのが、大恐慌の前であったとこを思えば、本書の慧眼には驚嘆せざるを得ない。
広告
イタリアにファッシズムがうまれ、ロシアにコミュニズムが誕生しているなかで、ナチの胎動も聞こえていたかもしれない。
大衆の政治が、惨憺たる結果をもたらしたことは、今や否定できない。
筆者の恐れていた事態が、その後の歴史だったことは間違いない。
本書はミルズの「パワー・エリート」などにも影響を与え、
下っては「ベスト・アンド・ブライティスト」までつながっている。

 筆者に従えば、すべての人が貴族になることはあり得ない。
とすれば、貴族の社会へ戻ることはできない。
精神的な意味での貴族であれば、政治の世界には無意味だし、
筆者の言うように専門家も貴族ではない。
むしろ、専門家こそ大衆であり、科学者こそ危険な大衆そのものである。
しかし、大衆が主人公である社会しかあり得ないし、
大衆が主人公でありながら社会を磨いていくには、どうすべきかとしか問題はたてようがない。
筆者に個人的にはとても共感するが、それは個人の生き方としてであり、
筆者が言うような領域まで広げることはできない。

 本書を読むことは、筆者の無力感を追認することになり、
時代の力の恐ろしさをひしひしと感じる。
「群衆:モンスターの誕生」など、今頃になって本書の二番煎じをやっている人がいるのは、
ただ虚しさが残るだけである。
オルテガを取り上げるなかでも、西部邁氏は「大衆への反逆」といって、
自分が少数者つまり貴族になったように展開している。
しかし、伝統を云々する彼の精神は、オルテガのそれとはあまりにも違うとしか言いようがない。

 筆者は、本書でヨーロッパの統一を訴えているが、
EUとして成立した欧州連合をどう評価するだろうか。
筆者の見地からでは、単なる大衆国家の寄せ集まりに過ぎないのではないだろうか。
私も自由主義デモクラシーを最高の政治形態と考えるが、
筆者のような立場は誤解されやすいのも事実である。
本書は大衆社会論の必読的古典だろう。 
広告
  感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、
I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001
レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955
田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
匠雅音「家考」学文社

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる