匠雅音の家族についてのブックレビュー    国民国家と暴力|アンソニー・ギデンズ

国民国家と暴力 お奨度:

著者:アンソニー・ギデンズ−而立書房、1999年   ¥4000−

著者の略歴−1938年生まれ、ケンブリッジ大学教授を経て、現在はロンドン・スクール・オブ・エコノミックス・アンド・ポリティカル・サイエンスのディレクターの職にある。「再帰性」の概念を機軸に。構造化理論を展開している。今日の社会学を主導する世界的に著名な学者のひとり。
 本国では1985年に出版されているので、ソ連の崩壊前である。
そのせいか共産主義やマルクス主義に対する評価が、ずいぶんと甘いのに驚く。
しかし、筆者の立論は、ソ連が崩壊したからといっても、変わらないだろう。
史的唯物論が今日の世界にたいして示す妥当性を主題にしていることから、マルクスから離れることは出来ないようである。
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 多くの人が、近代と前近代を連続とはとらえない。
筆者もそこに断絶を見る。
そして、西洋で始まったそれが、全世界へと広がったと考えている。

 私は、近現代の歴史を非連続性というかたちで概念構成する際に、近現代以前の時代に生じた変遷や断絶の重要性を否定したいと考えているわけではない。とはいえ、私が主張したいのは、人間の歴史の他のどの段階と比べても桁外れに大きな一連の変動が、当初は西欧社会ではじまったとはいえ、その影響力がますます全地球規模に及ぶかたちで生じてきたことである。近現代の世界に生きる人びとをそれ以前のすべての社会類型やすべての歴史的時代から分け隔てることがらは、その人たちをもっと長い時間幅に結びつける連続性よりも、奥深い意味をもっている。P46

 近代と前近代の断絶には、私も同感する。
今日では暴力は、警察とか軍隊といった支配権力の行使にともなうものだけが正当化されて、個人間では暴力が否定されている。
しかし、前近代社会は暴力がむき出しに現れており、支配者はいうに及ばず、個人間でも暴力が簡単に行使された。
暴力が肯定されたのは、労働が人間の肉体そのものに負っていたからであり、
労働が暴力の発現でもあったからである。
肉体労働とは、暴力の平和的な表れに過ぎない。

 今日のサラリーマンたちは、自分の身体以外には生産手段を持っていない。
それゆえに、サラリーマンの存在自体が、体制内的存在である。
サラリーマンの仕事は、体制から外にでては不可能である。
無産者といわれるゆえんで、それが庶民の参戦につながった。
近代では、農民ではなくサラリーマンが兵隊の供給源である。

 前近代にあっては支配される者は農民だったが、農民は土地という生産手段を持っていた。
貨幣の重要性は低かったし、流通は今日のような重要性を持っていなかった。
農民は自給自足だったがゆえに、自分たちで生活が完結し得た。
だから、今日のサラリーマンと比べると、農民は体制外の存在だった。
農民には間接的な支配は効かなかった。
生産手段を保有している農民への支配は、直接的な暴力にならざるを得なかった。

 農民の生産活動上の自立性が相対的に高いことは、不服従が生じた際に支配階級が発動しなければならない主な制裁手段が暴力の直接的行使になるという結果を、必然的にもたらす。そこには、慢性的な階級対立は存在しないが、農民の反乱が散発的に生じ、その後さきに述べたような軍隊による鎮圧がおこなわれていった。資本主義においては、それに先行する歴史と比べ、極めて異例な事態が生じた。支配階級はもはや暴力手段を直接管理していない。P88

 今日のほうがより強力な軍隊や警察を持っていることは自明である。
農民に対する軍隊がなぜ傭兵だったか。
そして、近代国家の軍隊が徴兵であるかも、庶民の生産手段へのかかわりかたに負っている。
農民が農民に武力で対峙したわけではない。
農民を支配した軍隊は、武士という支配階級だったが、サラリーマンに対峙するのは同じサラリーマン兵士である。

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 近代の被支配者であるサラリーマンにたいしては、サラリーマン兵士が対峙する。
しかし、生産手段をもたないサラリーマンは、自給自足の生活ができない。
前近代の農民と異なって、体制から自立していない。
サラリーマンたちには、支配者は軍隊をむけるまでもなく、
商品経済のひもを締めれば、彼らを意のままにできる。
サラリーマンたちは支配者に刃向かうことはない。
だから、近代国家の軍隊は、対外的なつまり国家間のものへと制限されていった。
 
 農耕社会における国家は支配の範囲が狭く、
支配の言葉が伝達する部分は、社会の上層部に限られていた。
近代の入り口で革命を経験すると、支配者は庶民層をも支配の内部に組み込み始めた。
それは19世紀になるとますます加速した。
徴兵制と普通選挙の確立は平行現象であり、徴兵をするために普通選挙権が付与された。
主権者は兵役の義務があるというわけである。
だから、戦争に巻き込まれなかったイギリスは、普通選挙には冷淡だった。

 筆者はマルクス主義にたっているように感じるが、
必ずしもマルクスにはこだわらない部分もある。
とりわけマルクス主義が、膨大な人を殺したひどい抑圧を生み出したことには、配慮が必要であろう。
それはマルクス主義そのものに内包する原因であり、
レーニンらの運用によるものだけではない。
また筆者の立場は、歴史発展史観であるとおもわれるが、内発的社会変動モデルを批判している。
進歩史観が途上国から先進国への発展をいうとき、
途上国の将来が先進国であり、両者のあいだには優劣が存在してしまう。
そして先進国の正当化につながってしまう。

 マルクスが工業主義の批判者でなかったことは、おおむね事実である。それどころか、マルクスにとって工業主義は、自然界の力を人間の目的のために転換することをとおして豊かな生活を約束するものであった。闘う必要があるのは、工業生産の特定の運営様式−資本主義−であって、工業秩序そのものではなかった。このような見解には、20世紀末の視座から見れば、本質的に欠けているものがあると判断せざるをえない。マルクスが唱えた工業主義の賛歌は、19世紀という脈絡のなかでは、とりわけマルクスがマルサスを無視したことを考えあわせば、おそらく容易に理解できる。P388

 筆者の環境保護運動への発言や、資本主義と工業主義への認識は理解する。
しかし、基本的な部分で時代から遅れているように感じる。
前近代と近代の断絶を大きく見るあまり、資本主義が続いている。
だから、現在も近代であるというのは、時代を見る目としては有効性に欠ける。
近代にたいして前近代を設定するなら、後近代があっても良いと思う。

 筆者のなかには、経済と政治の分離が意識されており、広い視野を持ってはいるが、
社会学者でありながら経済決定論的な響きを感じさえする。
本書が出版された当時は、すでに「第3の波」や「ポスト・モダン」がいわれていた。
情報社会への認識を聞かせてほしいところである。
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参考:
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992

ジョン・デューイ「学校と社会」講談社学術文庫、1998
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980

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