著者の略歴−紀元前427〜347、哲学者・アテネの名門の家に生れ,20才の時からソクラテスに8年間師事した。ソクラテスの死後,前399年祖国を去り学友メガラ派の創始者エウクレイデスの所に赴き,ついでキュレネ,エジプト,南イタリア,シシリア等を旅行した。40才の時アテネへ帰り,アカデメイアに学園を創設,ここで数学,天文学,倫理学,政治学,形而上学を内容とする弁証法を講じた。彼は81才まで衰えを見せず,筆をもったまま眠るように死んだという。修業時代,遍歴時代,円熱時代と、発展的に理解されことが多い。晩年は、真のエロスのみが人を真、善、美のイデアに帰依せしめることを説いた。 「シンポシオン」という原題をもつ本書は、紀元前380年頃に書かれた古典中の古典である。 一緒に飲むという意味らしく、食事会に集った友人たちが、ワインを飲みながら、次々にエロス=愛を讃美する。 現在の我々の感覚からは、ずいぶんと離れてしまった彼らギリシャ人のエロス観を、覗いてみるのもおもしろい。
この食事会では、床に寝そべって食べている。 当時は椅子に座って食べるのではなかった。 足を洗って食卓につくとは、ごろりと床に寝そべることだった。 キリストの最後の晩餐も、ほんとうは寝そべっていた、との説が強い。 一般に有名な古典ほど読まないものだが、1952年に上梓された本書は、1995年時点で61刷りにのぼっている。 本書を取り上げるのは、解説がいうような愛や美に関する、至高の書物という理由からではない。 ソクラテスにしてもプラトンにしても、本書での発言は酔っぱらいの戯言に過ぎないように感じる。 もちろん、饗宴があってから15年近くもたってから、わざわざ饗宴を思い出すようにして書かれた。 だから、プラトンは自分の思想を真面目に書いていることだろう。 現代を考えてみれば判るが、飲み屋の話題は、必ずしも上司の悪口だけではない。 日ごと夜ごとの飲み屋では、この程度の話は酒の肴として、毎度登場している。 ただ、それが体系だってなく、誰も記録しないから残っていないだけである。 しかもこの饗宴には、ディオティマという売春婦が参加している。 この饗宴だけが特別に変わったもの、というわけではあるまい。 しかし、決定的に違う点が一つある。もちろんそれは愛についてである。 かくのごとく多くの方面から、エロスが最古の神々のうちにあるということが一致して認められているのである。 『他面、もっとも古いこの神は、またわれわれにとって最大福祉の源泉でもある。実際私は、早くも少年に当って立派な愛者を持つこと、また愛者にとっては愛する少年を持つこと以上に大なる好事が在るとは主張し得ぬのである。というのは、いやしくも美しく生きんと欲するすべての人にとって、その全生涯の指針となるべきもの、それを愛ほどあんなに見事にその魂に植えつけることは、血縁にも、栄誉にも、富貴にもその他の何ものにもできないからである。P57 エロス=愛が大切だとは、現在でもいう。 しかし、愛を語る対象が現在とは少し違う。 ここでいう愛者とは成人男性のことで、愛する少年とは若い男性である。 つまり成人の男性が、若い男性を愛するというのだ。 もちろんここでいう愛とは、肉体的な交わりのことである。 本書は肉体的な交わりが、精神的なものへと昇華するといっている。 この時代のエロス=愛とは、成人男性が少年に対して語る言葉であったようだ。 成人男性は愛する少年に無様なところを見られるのが、もっとも恥だという。 愛する人の前で、良い格好をしたいというのは、現在でも理解できる心理だ。 が、ここでは愛する人とは女性ではなく、美しい少年である。 これはゲイではない。 典型的なホモである。 力の強い男性が弱い者を、慈しんだこと以外の何物でもない。 ホモは今日では、子供虐待になりかねないし、淫行条例違反である。 この時代には、成人男性だけが人権をもっていた。 一人前の人間とは、奴隷ではない成人男性だけだった。 女性は男性の所有物だったし、それゆえ強姦は所有物を傷つけたという財産侵害の犯罪だった。 女性の所有者である男性が、承諾すれば強姦は犯罪とはならなかった。 もちろん、女性が男性の所有物だったのは、肉体労働が支配する社会であり、男女の労働が異なっていたからである。 だから、男性至上主義が成り立っていたのは、女性が労働をしない支配者階級においてだけだったに違いない。 ただし、例外が存在した。 それは上流階級の売春婦である。 この饗宴にも参加している女性ディオティマのような売春婦のことで、彼女は高度な知識をもった文化人だった。 性の快楽が高度な思考と直結している、と見なされていたこの時代には、売春婦は性に関する達人つまり高度な知識人でもあった。 おそらく江戸時代の花魁のような存在だったに違いない。 ソクラテスはディオティマの言葉を、さかんにとりあげ、自分は彼女から教えられた、と述べている。 つまり女性であっても、売春婦だけは成人男性と同等に扱われた。 しかし、面白いことに本書の注では、売春婦がソクラテスに教えるはずがないと考えてか、ディオティマはプラトンの創作上の人物と記されている。 差別意識のなせるわざであろう。
ある年齢になるまでは生命さえ保証されていない。 事実、幼くして死ぬ者がたくさんいた。 何とか自分のことができる年齢、つまり10歳を過ぎる頃になると、少年は成人男性へと成長する者として、温かい目でみられ始める。 そこで成人男性になる教育が始まった。 教育といっても学校があるわけではない。 当時の教育とは成人男性の性器を、愛をもって少年の肛門に挿入することだった。 つまり肉体的な接触をとおして、成人たちの知恵を伝授したのである。 わが国でも藩校ができる前は、同様だったろうと思う。 少年である間は−彼らはもともと男性の片割れだから−成年男子を愛し、またこれと一緒に臥たり抱擁し合ったりすることを喜ぶ、しかもこれこそ少年や青年のうちもっとも優秀な者なのである、なぜなら彼らは本質上もっとも男性的な者だからだ。なるほど世間には往々彼らを無恥だという者もあるが、それは当らぬ。彼らをそうさせるのは無恥ではなくて、むしろ大胆と勇気と男らしさとであるからである、彼らは自分に似たものを愛重するのである。その有力な証拠は、成長するや、一人前の男子として政治生活に参加する者は独り彼らに限るということである。ところでいったん壮年に達するや、彼らは少年を愛する。結婚や子供を拵えることなどには生来関心するところなく、むしろただ慣習によってそれを強いられるに過ぎない。結婚せずに友と一生を過すことができれば、それで彼らは満足するのである。P82 哲学者のソクラテスは、典型的なホモだった。 彼が少年のお尻を追いまわした記述は頻出する。 もちろん女性にも目がなかった。 当時の成人男性にとって、セックスと哲学の世界は通底していた。 相手は女性でも若い男性でもよかった。 傑出した哲人ソクラテスは、今風に言えば、スケベ・オヤジの典型だった。 むしろスケベであることは、哲人の証明でもあったのだろう。 現代の優れた哲学者が、未成年者を自室に連れ込んで、セックスに及んだらどうなるかは明らかであろう。 教育だといってもそれは通用しない。 セクハラもしくは幼児虐待で、社会からの非難を浴びるであろう。 今日では、性の快楽が高度な思考とつながっているとは考えない。 だから、セックスが哲学だとは誰も言わない。 単なるスケベ・オヤジという扱いである。 私は、伝統的な世界を継承する必要があり、継承を是とするのなら、肉体関係があっても仕方ないと考える。 肉体関係を含めた親密ななかでこそ、伝統的な世界は継承される。 とりわけ舞踊や歌といった世界では、身体の使い方を教える必要から、肉体的な接触があても不思議ではない。 とりわけ6歳の6月6日が、芸事初めといわれた伝統芸能の世界では、子供虐待ともとられかねない行為がまかり通ったことだろう。 伝統的な世界を継承するためには、子供虐待にもなりかねないことが、その世界の教育だと知る必要がある。 学校がなかった時代、すべてが肉体的な接触によって、伝授されたと言っても過言ではない。 伝統的な世界とは、それほど現在とは異なっている。 私自身伝統的な建築の世界で育ったから、伝統的な世界の良さは良く承知している。 しかし、伝統的な世界の美しさは、今日的に考えれば、人間を殺したうえに花が咲いている。 かつては人件費より材料費の方が、はるかに高価だった。 だから人間より、物のほうが大切にされた。庶民の命など、まったく軽く扱われたのだ。 前近代は、女性や子供の人権はむろんなかった。 また差別された部落民がいたり、障害者の人格は無視された。 そうしたことを考えると、伝統的なものの良さは、博物館でのみ鑑賞できれば良いと考える。 伝統的な文化の継承とは、伝統的な価値観=差別も受け継ぐことである。 だから、あえて伝統的な文化を継承する必要はない、と考える。 奴隷がいたり、女性の人権が無視されたギリシャを、民主主義の故郷だと言うことは絶対にしたくない。 ギリシャは1割の支配者が、働かなくても生活できるように、残りの9割の人たちが働いて支えていた。 高級売春婦のすばらしさと、少年の妖しげな魅力は認めるが、ギリシャの性文化には反対の立場である。 (2002.8.2)
感想・ご意見などを掲示板にどうぞ 参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006 礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987 プラトン「饗宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002 東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991 バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985
|