匠雅音の家族についてのブックレビュー    常識を越えて−オカマの道、70年|東郷健

常識を越えて オカマの道、70年 お奨度:

著者:東郷健(とうごう けん)  ポット出版、2002年    ¥2、000−

著者の略歴−1932年兵庫県加古川市生まれ。雑民の会、雑民党の代表。『ザ・ゲイ』編集長。伝説のオカマとして知られ、選挙活動、ゲイ雑誌編集、芝居など幅広く表現活動をこなしている。1男2女の父。逮捕歴多数。座右の銘は、「せめて、自らに恥じなく眠りたい」
 常識とは変わるものだ、それが本書の読後感である。
東郷健氏の名誉が復権されつつあるようで、ほんとうに嬉しいことである。
東郷健氏と美輪明宏氏は、わが国のゲイの最先端をいった2人である。
2人とも早くからカムアウトし、自分の世界を築いてきた。
美輪明宏氏はすでに名声を確立しているが、東郷氏は揶揄され非難され、ゲイ仲間からも疎んじられてきたようだ。
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 私は少年愛といったかたちの同性愛=ホモと、同じ年齢や社会的な地位の同性が愛し合うゲイは、異質なものだと考えている。
少年愛的な同性愛=ホモは、古くから世界中に存在したが、ゲイは先進国にだけ存在するきわめて新しいものだ、と思う。
ホモは子供虐待の可能性もあるので、手放しでは賛同できないが、ゲイには無条件で賛同する。

 筆者はオカマと自称し、同性愛者であることを公言している。
筆者のいうオカマとは、ホモを指すのではなく、ゲイを意味しているようだ。
本書では、ゲイとホモの両方が使われているが、ゲイは肯定的な同性愛に、ホモは否定的な同性愛にと、使い分けられているように感じる。
筆者がいうように、オカマ=ゲイのどこが悪いと開き直ったのが、西洋におけるゲイのカムアウトだった。女装してはいるが、筆者は実に男らしい。

 わたしはオカマの解放に取り組みはじめたのだった。わたしは、自分の思想を、オカマに訴え、オカマを闇の世界から日の当たる場へと解放すべきことを主張した。しかし、さきにも述べたように、オカマは政治に関心を示さなかった。彼らは、自分がオカマであることを隠して生きているのであった。公の場所で自分の意見を述べる時は、自分を本当に苦しめているオカマを問題にしないのだ。
 わたしは、オカマの自立を主張すべきであると考えた一方で、オカマをとりまく社会にも目を向けていかざるを得なかった。オカマは、世間の常識に反するらしい。常識とは何か。常識とは、人間を束縛しているそのものではないか。P110


 1960年代後半の学生運動は、運動としては完全に敗北したが、
筆者もいっているように大きな思想的な成果を生んだ。
女性の自立を生みだしたのも、学生運動の流れだったし、
さまざまな差別を白日の元にしたのも、敗れた学生運動の影響だった。

 ゲイが社会的な束縛を受け入れるのではなく、
既存の常識で自分を見ることを拒否し、自分がゲイであることを堂々と認め、
自分を解放しなければならない、と筆者はいう。
自分に染みついた常識を否定する発想は自己否定と呼ばれ、
まさに全共闘という学生運動が主張したものだ。
筆者の発言からは、フランスの五月革命以降の動きと、同質ないわば世界的な広がりを感じる。

 筆者は自己の主張を貫くために、なんども選挙にうってでる。
当時オカマは蔑称だったから、筆者はオカマと呼ばれることを忌み嫌っていたが、
徐々にオカマであることを自覚し、反対に自らオカマと称するようになる。
この発想の転換は、実に偉大なことである。
筆者のホモ(ここではホモという言葉を使う)仲間には、会社の重役や部長といった幹部や大学教授などがいるが、彼らはまったく選挙にカンパをしないという。
彼らは相手をだまして結婚し、表面上は女好きを演じながら、裏では男を抱いている、と筆者は嘆くのである。

 ゲイは両者が対等な関係だが、ホモには挿入する者が優位、される者が劣位という上下関係がある。
ゲイが新たな平等社会へと向かう、水平指向であるのに対して、
ホモは女性の代わりに弱いもの=年少者を、抱いているに過ぎないからだ。
当事者間に上下関係があるものは、今後の社会では理念として認知されることはない。
だから筆者の嘆きは理解するが、ゲイはカムアウトできても、ホモはカムアウトできないように思う。
 
 一夫一婦制という牢獄が、政治家・資本家に利用されているとか、
この世に猥褻なものは存在しないとか、天皇制こそ差別の根源であるといった、
筆者の主張はどれも肯首できる。
一夫一婦制こそ男女差別の根源だし、天皇制こそ部落差別の象徴である。
もちろん、ラリー フリントならずとも、この世に猥褻なものは存在しないとは、今や良識だろう。
通俗的な常識の外にたつ者は、社会の歪みがよく見えるに違いない。
また、次の言葉も鋭いものだ、と感服する。

 「愛」に対するわたしの考え方は、ここ数年来大きく変化をしていた。(中略)「愛の独占」というのは、一見、人間の性情に自然なことのように見える。しかし、よく考えてみると、愛した相手を独占したい、というこの欲望こそ、人間はじまって以来、いわゆる体制なるものを支えてきた論理と同じく、支配階級に都合のよい理屈なのだ。
 「愛の独占」は決して、人間の心理に自然に根を下ろした欲望などではなくて、まさに6千年に及ぶ人間の歴史に束縛された欲望にすぎないのである。P136


 愛した相手を自分だけのものにしたい、という思いは誰にでもあり、
筆者自身いまだに「愛の独占」という束縛から、脱しているわけではないと言いながら、
この発言は今後の展開が期待できる。
愛とは解放を指向するもののはずで、独占という閉鎖性を思考するはずがない。
愛とは人を拘束するものではない。
愛と独占は二律背反である。
フェミニズムが愛に足をすくわれ、一夫一婦制に埋没していった。
それとは反対に、筆者の主張は明るい将来を予測させる。

 伏見憲明氏は、東郷健なんかいない方がずっとマシと思っていたが、
今では東郷健を生かしきれなかったのは、ゲイ・コミュニティの力量不足だと自著で言っている
が、なんと脳天気楽であろう。
マスコミやフェミニズムの学者たちから、チヤホヤされる流行ホモの人たちが、
ゲイの先達を軽んじているように思えて仕方ない。
猛烈に考え直して欲しい。
取材費をもらってホモ取材をやっている人は、自力でゲイをやってきた人の足元にも及ばない、と私は思う。
大学フェミニズムと同様の権威主義的な資質を、流行ホモの人たちも身に付けてしまったのだろうか。

 市井の常識からだけではなく、ゲイの世界からも、疎んじられていた東郷健氏だが、むしろ疎んじていたホモたちのほうがおかしいように思う。
ホモたちもまた常識人として、自らを確立させたいとしたら、それは決して自我の確立ではないし、
新たな差別をつくっているに過ぎない。
海外ではドラッグ・クィーンと呼ばれる人たちも、ゲイの一員として活動しているのに、
東郷健氏がゲイとしてなぜ異端視されるのか、不思議である。
わが国ではいまだにホモがはびこり、ゲイが少ないからだろうか。
(2002.8.2)
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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985


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