匠雅音の家族についてのブックレビュー    ゲイという経験|伏見憲明

ゲイという経験 お奨度:

著者:伏見憲明(ふしみ のりあき)  ポット出版、2002年    ¥2、500−

著者の略歴− 1963年東京生まれ、埼玉育ち。武蔵野音楽大学付属武蔵野高校声楽科卒、慶応義塾大学法学部政治学科卒   nofushimi@mail.goo.ne.jp
 600ページを超える大著で、筆者の体験がいっぱい詰まっている。
ゲイであることをカムアウトし、物書きとして口を糊する著者の歩みがよくわかる。
しかし、本人はゲイは差別されているというが、ある国立大学の講師までやって、物書きという不労者で食える。
だから、差別とはいったい何なのかと、考えさせられてしまう。
ゲイや女性に比べて、中高年失業者は、差別されてはいないのだろうか。
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 私はホモとは成人男性が、年少の男の子をかわいがる少年愛で、ゲイとはほぼ同じ年齢や地位の成人間の性愛関係だ、と考えている。
だから、ホモは昔から世界中に存在した。

 しかし、ゲイは性別と性差が分離した社会になって出現したものであり、農村部には存在しないものだと考える。
ホモは上下関係であり、ゲイは横並びである。
現代ではホモは子供虐待になりかねない。
が、ゲイは成人間のもので異性愛とまったく同質である。

 異性愛が主流の社会で、ゲイを名のるのは少数派であると宣言することだ。
少数派であっても、社会的な生活は多数派と同じように、認められなければならない。
そんなことは言うまでもない。
しかし、少数派が少数派として、自己の存在証明を作ろうとすれば、厳しい格闘が強いられることになる。

 ゲイとしての理論的な基盤を作れといっても、若い筆者には無理な注文かも知れない。
また、筆者がゲイとは多様性であり、一つのパターンには収束しないと言っている以上、理論構築を期待するほうが間違っているのかも知れない。

 M・フーコーをはじめ外国人のゲイたちは、自己存在の理論的証明を求めて格闘した。
外国のフェミニズムも同様だった。
わが国の少数派は、外国での成果を拝借しながら、居心地の良い部分だけ摘み食いをするのかも知れない。
それはフェミニズムもゲイも同じなのかなと、いささか寂しくなる。

 本書は自分の楽しい、苦しい日々を書き連ねているが、ほとんど歴史性や社会性には目が向かない。
自分の手の届く身近な世界で、差別されていると被害者であることを訴える。
皮膚感覚がとどく範囲にしか、筆者の筆はとどいていない。
若くしてマスコミ・デビューをした筆者には、弱者としての演技が身に付いてしまったのかも知れない。
しかし、弱者が弱者でいるかぎり、自己の存在証明は確立できない。
そして、他の弱者には鈍感なままだ。

 わが国には、フェミニズムが女性文化を形成し得ないのと同様に、ゲイ・カルチャーもない。
それは筆者も認めている。

 こと日本にかぎって見れば、ゲイは語られる存在であっても自ら主張する存在であるとは言い難い。自ら表現するというよりは表現されてきたにすぎない。せいぜい三島由紀夫の小説に見られるような、日陰者の美学の足跡を垣間見るだけである。この国には本当の意味でのゲイ・カルチャーなんて存在しなかった。それは欧米のように、ゲイの自己表現の精神的基盤たりえるムーブメントや思想が日本には近年まで存在しなかったからだ。海の向こうでは、表現と社会的運動は一体となって発展していったのである。P377

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 ゲイにかぎらず、自己表現の理論的基盤がないと、他者への説得は無理だし、自らの自立も難しい。
本書における筆者のスタンスは、楽しければ良いだろう的な開き直りが感じられる。
ゲイの先蹤者としてはいささか力不足だと思う。
というより、筆者のような皮膚感覚的なスタンスだから、安全牌としてマスコミなどが飛びついたのだろう。
もし、筆者がゲイ理論の確立を目指していたら、マスコミは恐ろしくて近づけないに違いない。

 本書がいっているゲイの社会的な位置とは、ほとんど単身者と重なる問題が多い。
ゲイという個人的な嗜好が、社会的な制度で差別される構造は、単身者ゆえに半人前といった扱いと変わらない。
老後への不安は、むしろ単身者のほうが大きい。
また、ゲイは結婚できないという嘆きも、一夫一婦制を否定的に見る私からすれば、戯れ言に聞こえる。

 ゲイである立場を認めろというのは当然の主張だが、同時にストレートである立場も、ゲイ自身と同様に考えるべきだ。
ゲイ嫌いのストレートを口汚くののしるのは、ストレート嫌いのゲイのまったく裏返しである。
筆者の筆致は、自分を中心に世界がまわっているかのようで、女性フェミニストの文体とよく似た印象である。
女性フェミニストたちと同様に、仲間内では受けるに違いないが、誰でも納得せざるを得ない論理的な一般性の獲得には無理がある。

 ゲイが嫌悪の対象になったのは、生殖云々はまったく関係なく、下記の記述は誤りである。
農耕社会では、ホモは一度として反社会的だったことはないし、共同体は生殖に発展しない性関係を恐れはしない。

 「反社会型」。ゲイやレズビアンはここに含まれる。なぜ「反社会」なのかというと、前述したように、ホモセクシュアルというのは生殖に発展していかない関係だからだ。そういうつがいを共同体は恐れる。なぜなら共同体を共同体たらしめている基盤、つまり家族というものを発展させないからだ。それは共同体の基本原理と相反する。ゆえにホモセクシュアルというのは弾圧され、禁止の対象とされてきた。社会のあり方を根底から引っくり返してしまうその論理を恐れたからだ。P426

 ホモが禁止されたのは最近のことであり、それは近代社会だけである。
ギリシャや江戸では、ホモは大手を振っていたし、途上国では今でもホモはたくさんいる。
つまり、ホモは高齢者が偉いという年齢秩序の反映である。
だから、肉体労働が支配的な社会では否定されない。
それにたいして、横並びのゲイは年齢秩序にたいする反発だから、農耕社会では禁止されたのだ。農耕社会では高齢者を偉いと認めないと、文化が途絶し人類は生き残れなかった。
そして今、年齢秩序が崩壊し始めるに及んで、ゲイの生息が許されるようになったのである。
 
 フェミニズムが心をそそらないのはなぜか。これだけたくさんの関連書が書店に出回り、学会の論客がメディアで舌鋒鋭く女性差別の解消を訴えても、どうも、人口の半分を占める女性たちの大きな支持を得ているようには見えない。
 (中略)現在も一般大衆の女たちが、社会の女性差別の網の目に気がついてないと考えるのは、あまりにもナィーブだ。とすると、フェミニズムという思想がいまひとつ支持を得られていない原因は、そこで生産される言説群自体に問題があると考えるのが道理というものだろう。P161


 と筆者はいっている。
ゲイ理論をきちんと確立しないと、わが国のフェミニズムと同じ道を歩くことになりかねない。
ホモは性秩序に関するものではなく、年齢秩序に関するものである。
性別役割と年齢秩序が崩壊を始めたので、ゲイの台頭が始まった。
ゲイにしろフェミニズムにしろ、情報社会が必然的に生みだしたものだから消滅はしない。
しかし、わが国ではこのままでは風俗として風化する可能性が高い。
そうならないためにも、筆者には奮起を期待したい。    (2002.8.2)
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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985
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