匠雅音の家族についてのブックレビュー    カミングアウト−自分らしさを見つける旅|尾辻かな子

カミングアウト
自分らしさを見つける旅
お奨度:

著者:尾辻かな子(おつじ かなこ)  講談社、2005年    ¥1500−

 著者の略歴−1974年、奈良県に生まれる。大阪府議会議員。兵庫県立夢野台高等学校で空手道全国大会優勝、アジアJr.チャンピオン。高知大学農学部森林科学科に入学するも休学。フリーターを経て、韓国ソウル大学校に留学。その間、テコンドーのシドニー・オリンピック国内予選に挑戦し敗れる。帰国後、同志社大学商学部に入学。2003年4月13日、大阪府議会議員選挙で当選。大阪府議会で女性の最年少議員となる。
 筆者は性的マイノリティとされる人々、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)などの人権擁護に取り組んでいる。
筆者の世界では、本書の限りで充分であろう。
しかし、カミングアウトした勇気を称賛し、本書に原則的に賛同したうえで、あえて苦言を呈したい。
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 本サイトは少数者の権利に味方することにおいて、人後に落ちないつもりだが、少数者であることの特権もまた認めない。
社会にはさまざまな差別があるが、あくまで個人として尊重されるべきで、個人のもつ属性は思案の外である。
ここでは差別の解消を、少数者として一括りにする危険性を指摘したい。

 筆者は男の子のようで、おてんばな女の子だったらしい。
小さな頃から、筆者が廻りにとけ込めずに、苦労してきた様子はよくわかる。
そして、中学にはいると、ソフトボール部に入ったが、そこでイジメにあって苦労したという。
筆者自身がまだ若く、自分の経験内から発想しているので、やや視野が狭い感じがする。

 「本人の性自認(自分が男性/女性/その他であると思うこと)とパートナーの性自認が同じ性であった場合に、同性愛と呼んでいる」 P107、と筆者は言っているが、ホモ(=同性愛)とゲイの違いは確認する必要があるだろう。
政治は数の世界だから、衆を頼むのは仕方ないかも知れない。
しかし、表面的な同類をたくさん集めても、差別は解消されない。

 「医学上、同性愛は異性愛とともに健康性で病気ではない。どの時代、どの社会にも数パーセントの同性愛者がいることも知った」、と 筆者は別のところで書いているが、疑問である。
当事者の性自認が、同じでも許されるようになったのは、人類の歴史上ではごく最近のことではないか。

 小学校の男性の先生が男子生徒に性的いたずらをして逮捕された、という事件があった。週刊誌は「ホモ教師」呼ばわりして、 面白おかしく記事にする。まるで、性的指向そのものが問題であるかのように。
 もし、いたずらされたのが女子生徒だったら、「異性愛教師」と呼ばれるのだろうか?異性愛でない場合のみ、性的指向を問題にするのはおかしい。
 この事件で問題とすべきなのは、教師による未成年の生徒への性的いたずらであって、それは性的指向にかかわらず、許されることではない。P206


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 この指摘は、この限りではまさにその通りだが、歴史的な文脈で見るとまったく違って見える。
かつては成人男性の未成年男性への性的関係は、犯罪ではなかった。
成人男性と年少男性の性愛は、「少年愛の美学」にみるように、少年愛=同性愛として肯定されていた。

 少年愛=ホモは、むしろ文化の継承方法として、公認されていた。
だから、ホモはどの時代、どの社会にもいた。
しかし現在では、成人男性と年少男性の性愛は、少年愛=同性愛として肯定されない。
ホモは未成年者への性的いたずらであり、犯罪である。

 身分制があった時代、人間間には上下関係が貫徹していた。
それは性関係においても同様だった。
男女も貫く性と貫かれる性としてあり、男性が上位、女性が下位であった。
その時代には「饗宴」をもちだすまでもなく、成人男性と年少男性の性愛=ホモも、貫く性と貫かれる性として、人類史上どこの社会にも存在した、と言っていい。

 ホモとゲイは、まったく違うものだ。
西洋諸国においてゲイが市民権を得るために、ゲイは成人男性と年少男性の性愛ではない、と何度も強調してこなければならなかった。
レスビアンの歴史」などでもわかるが、女性同性愛者の場合には、女性の年少者を愛玩することが少ないので、男性ゲイのような誤解は少なかったかも知れない。

 しかし、ゲイとはほぼ同じ世代、同じ立場の人間同士の関係である。
当事者間に上下関係はないはずである。
それは女性ゲイでも同じだろう。
上下関係のホモと違って、ゲイは横並びなのだ。
ゲイはきわめて時代先端的である。

 我が国ではゲイを認知させることが大切で、ゲイとホモ=同性愛の違いは、問題にすらなっていないかも知れない。
しかし、両者の区別をしないでおくと、子供たちへの犯罪が報道される昨今、ゲイの存在が非難の対象になりかねない。
人権が歴史普遍的に存在したのではないように、ゲイには新たな時代のプライドがあり、ゲイは個人化した情報社会に特有の存在である、と言うべきであろう。

 個人的な体験と比較することが許されるなら、40年前には男女の同棲ですら、アパートを借りることが出来なかった。
同棲していると、就職にも差し支えた。
もちろん、結婚しないで男女が同居するのは、両親の大反対にあった。
筆者が政治指向であるだけに、衆を頼む傾向が感じられ、それがゲイの解放に障害にならなければと、危惧する。

 フェミニズムは女性を一般的に開放したのではなく、女性を働く者として社会へと解放したのだ。
我が国のフェミニズムが、専業主婦まで女性一般として運動に取り込んでしまった。
そのため、いまでは働く女性たちから見捨てられてしまった。
ゲイが同じ轍を踏まないよう、切に願う。    (2006.7.03)
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参考:
目黒依子「女役割 性支配の分析」垣内出版、1980
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
アラン・ブレイ「同性愛の社会史 イギリス・ルネッサンス」彩流社、1993
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991

バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985


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