著者の略歴−1912年(大正元年)愛知県生まれ。上智大学新聞科卒。同盟通信写真部に入り、昭和13年、従軍記者として中国戦線に赴く。同14年、朝日新聞東京編集局へ。同16年、召集の一兵卒として華中、満州、サイパンと転戦し、グァム島攻防戦の最後の段階で投降、終戦までハワイの捕虜収容所で過ごす。昭和31年、朝日新聞川崎支局長。32年、仙台支局デスク。37年、千葉支局長。38年横浜支局長を歴任。後に東京本社に戻り、編集委員として「声」欄を担当.定年退職後「アサヒタウンズ」紙報道部長として活躍。昭和60年7月に病没。 戦前には、国民教育として戦争賛美がうたわれて、大部分の日本人は戦争に賛成した。 戦後に何と言おうとも、過半数以上の国民が戦争に賛成したから、 戦争に至ったのだし戦争が維持できたのだ。 兵隊として戦場に連れだされた人たちは、戦うことこそ考えただろうが、 自分の考えで戦いをやめることなど、考えもしなかったに違いない。 本書の筆者は、戦うことを自らやめた希有の一人である。 戦うことを刷り込まれた人間が、投降することは本当に難しかっただろう。 仲間が戦っているときには、戦い続ける方が気は楽である。 戦いをやめることですら困難である上に、 戦線を離脱して投降するのは、日本人の心性として不可能と言っても良い。 それを筆者は成し遂げた。 そして、戦後になっても、死ぬまで苦しんだだろう。 投降したことは誰にも、話さなかったに違いない。 その辛さは,想像にあまりある。
戦争というのは、3割の兵士が死傷した段階で、降伏するのを原則とする。 それが政治の継続としての戦争であり、理性ある戦いである。 3割以上の兵士が死傷しながら、なお戦い続けるのは犬死にであり、 その戦いには何の意味も効果もない。 にもかかわらず、わが国の軍隊は兵士に降伏を認めなかった。 にもかかわらず、最高司令官は投降した。 彼は卑怯にも自らの言葉を裏切った。 そして,投降したことを責められることはなく、東京の真ん中に住み続けて、平然と天寿を全うした。 一兵卒の筆者が、戦争を語ることから口を閉ざし、 投降した自分の行動に自責を感じて生きた。 兵隊が責任を感じ、最高司令官は戦争責任から逃げた。 この事実が、わが国の戦後の資質を決定つけた。 組織の上部にいるほど無責任でも良いという、倒錯した倫理がはびこったのは、 戦争の負け方に原因がある。 上部の無責任とトカゲの尻尾切りは、現在でも続いている。 多くの類書は、自分がいかに戦争で戦ったかを書くもので、 どうしても自己肯定が強い。 「アーロン収容所」にしろ「戦争案内 ぼくは20歳だった」にしろ、 ともに良書であることは認めるが、筆者の心的な屈折がない。 自己を問うことなく、事実の記述である。 投降後に書かれたためであろうと思うが、本書はわが国の軍隊の内実を克明に知らせてくれる。 当初、満州に配属になった筆者は、韓国を貨物列車にのせられて通過する。 貨車に便所がないうえに、列車がめったに停車しないことは、最大の苦痛だった。あるとき朝鮮の大きな駅で、めずらしく停車した。(中略)停車時間も分からないのに、この便所がそれを当てにして集まった人たちを捌ききれるとはとうてい思えなかった。兵隊がこの「正式便所」の順番を待っているわけがなかった。あらゆる隅を求めて、兵隊の群れが走っていた。 僕は恰好な場所を探しているうちに、どこもかしこも黄色い糞だらけであることが分かった。朝鮮の幹線の、それもそうとう大きいこの駅の構内は、むき出しの糞でおおわれていた。糞の様子から、われわれの前にも相当数の部隊が、ここを通っていったことが想像された。関東軍の精鋭のすさまじい通過ぶりである。とり片づけようともしないし、便所の増設さえ考慮されていない。P36
自軍と同様に、敵も根性があるのだから、より冷静になった方が勝つ。 筆者には事実を冷静に見る目がある。 日曜に酒保で甘いものを買うためには、そうとう長い行列を我慢しなければならなかった。古い兵隊はあとから行って、先頭から5、6人目くらいににやにや挟まるのが多かった。初年兵の心得として、これは唯々として受けいれることとなっていた。P52 身分制の前近代であれば、列そのものが成り立たない。 近代では個人が平等化したので、列を作って順に並ぶようになった。 だから、列を守れないのは、近代人ではない。 近代にあって、地位の高い者の割り込みを認めることは、上位の者が責任をとらない証である。 ここに、敗戦時の上官たちの態度が、すでに露出している。 グァム島での活動が、本書の後半であり1冊の大部分を占める。 上部のあやふやな指令に従って、現場の兵隊たちは、右往左往させられる。 こうした顛末は、多くの戦争記録に記されているから、ここでは省くが、 投降への逡巡が痛いように伝わってくる。 すでに食べる物さえ満足にないというのに、筆者はなお心を迷わせている。 今日でもほとんどの兵隊が「グァムには救援が来ない」「日本は敗ける」と7、8分まで諦めている。しかし、あとの2分、3分の未知数がいざとなると問題である。「じや、脱出して生きよう」ということになったら、僕と星野上等兵がそうであったように「ひょっとして救援が来たり」「日本が敗けなかったり」したらという不確実な部分が急に大きな力となり、重石となってきて、それをはねのけるのは容易ではない。P256 捕虜になってから、アメリカ軍の輸送船に乗っているときのことである。 本物の潜水艦が現れたことが一度あった。日本軍の潜水艦、−それは捕虜にとって心のおき場に困るものだった。友軍の軍艦である。しかし救いの神ではない。これがアメリカの捕虜だったら、救いの神だと喜んだかもしれなかった。日本の捕虜にとっては、これにもし救われたら敵以上に恐ろしいことだった。そうかといって、はっきりと憎むことも、敵視することもできない。ただ、早くどこかへ逃げてくれと心ひそかに願うよりほかなかった。P406 自国の兵士をこんな心境にさせるとは、日本軍とは何と残酷なのだろう。 捕虜になった自国の兵士を敵軍にそわせるようでは、 兵隊は安心して戦うことができない。 話は飛躍するが、現代の外務省も海外の我が国民に冷たい。 投降した筆者が感じてきたことは、戦前のわが国に限らない。 戦後の反体制運動にしても、労働・学生運動にしても、興奮して戦うことしか頭にない。 わが国において戦線離脱は、それだけで裏切りである。 捕虜になった人間に、名誉を与えない価値観は、それだけで敗北の思想である。 冷静に状況を判断する心性は、わが国ではとうとう養われなかった。 筆者が死ぬ直前に、この手記が息子にあかされたという。 それまで筆者は誰にも、戦争のことを語らなかった。 この話も、息苦しいわが国の心的状況を、よく示している。 先達の勇気ある経験を、心して読ませていただいた。
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