匠雅音の家族についてのブックレビュー    無文字社会の歴史−西アフリカ・モシ族の事例を中心に|川田順造

無文字社会の歴史 
西アフリカ・モシ族の事例を中心に
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著者:川田順造(かわだじゅんぞう−岩波書店、1990年  ¥1,000−

著者の略歴−1934年東京都生まれ。1958年東京大学教養学科(文化人頬学分科)卒。パリ第五大学民族学博士。現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、国立民族学博物館、放送大学併任教授。著書に、『広野から』『サバンナの王国−ある″作られた伝統"のドキュメント』『サバンナに生きる』など。
 人類の誕生にくらべれば、文字の成立はずっと最近のことである。
錯覚しがちであるが、文字は考える手助けになりはするが、
文字が思考の手段ではない。
文字がなくても、思考は充分にできる。

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無文字社会の歴史
 多くの歴史研究は、文字の解析によってなされるが、
文字のない社会にも人間は住んでいるし、
その貴重さにおいて文字社会の現代と何ら変わらない。
地球上にはまだ文字のない生活をしている人がいる。
彼等は文盲ではない。
その社会には文字はないのだ。
文字を考えるうえでの、文化人類学者が現地に住み込んでの報告である。

 文字がないということは、文字に変わる何かがあることである。
それはおそらく音の伝承であろうし、言葉の伝承であろう。
伝承は肉体を通じてなされるから、ときの社会性に負い個別性に欠けると思う。
それを伝える人が、覚える作業をし、復元のときには音にだす。
どうしても当該社会のしきたりとか、習慣に拘束されるだろう。

 文字は個別的に参照できるので、個人という概念とつながっているだろう。
もちろん、近代的な個人概念とは違うが、
文字の誕生は個人の覚醒を促したことは間違いないだろう。
だから、活字印刷の発明が、近代に及ぼした影響を、
あれほど騒がれもするのである。
時代が下ることは、個人に目覚めることであるのは間違いない。

 音や言葉による伝承の場合は、時間基軸の設定が難しく、現在を規準にしがちである。

 現存する社会の由来と、先祖の系譜上の分岐点について、口承史がとくにくわしく語っているのは、政治思想の表現という側面をもつ口承史の性格からも当然のことといえるかもしれない。歴史上の持続が人の名や事績でみたされていない、小首長や一般民の歴史伝承でも、現在の居住地への定着の由来や、重要な系統からの祖先の分枝については、はっきり語られていることが多い。P83

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というのは当然であろう。
伝承によって、王位の継承や権威の委譲が、円滑に行われるに違いない。
人間の歴史は戦いの歴史でもあるが、
平穏な時代のほうがはるかに長く、平穏さを維持する仕組みはどの社会にもある。
社会を平穏におくことが、ただちに政治の支配である。

 無文字社会の歴史の探究における相互的作業は、口頭伝承だけにもとづいて行なわれるかぎり、解釈の素材と、解釈の妥当性を検証する参照物とが、同じ次元に属するという特徴をもっている。(中略)この悪循環をたちきるには、前の章でみたように、相互に独立した表明を比較することによって、意識された表明の底にかくされている意味を発見しようとつとめるか、歴史の意味をあらわす他の次元のもの−制度、物質文化、遺物、語済研究や形式分析の面からみた言語表明、など−を、解釈の素材のなかにとりこむ必要があるだろう。文字記録も、このような観点からすれば、口頭伝承と同じ次元に属していることになる。P144

 西アフリカでの住み込みの体験は、筆者にさまざまなことを教えてくれる。
現在使われている土器と、
考古学的な地層から発見される土器は、アフリカではほとんど変わらない。
長い年月のあいだ、技術の進歩はない。
文字には「秘儀性」と「規約性」があり、両者は比重を変えながら併存している。
新石器時代が文字なしで実現されたように、
文字は人類の知識に貢献したのではなく、
権力支配の強化に役立ったのではないか、とレヴィ=ストロースはいう。
文字の発生は、知の独占を許し、識字力のあるなしが権力化するというのは、必ずしも適切ではない、と筆者は反論する。

 現代社会においても、文字は必ずしも人の心に、大きな位置を占めているとは限らない。
文字社会と無文字社会は連続している。

 文字がすぐれて人間の意識の「立ち止り」の産物であり、意志的、個別的な表明の結晶であるとすれば、無文字性と呼ぶべき部分は、その基底部をなす、無意識的、集合的ないわば文化の下部構造に対応するといえる。ここにいう文化の下部構造とは、精神文化に対置されたものとしての、文化の物質的側面のみにかかわるのではない。物質文化のほか、精神文化の領域では、生活慣行や儀礼はいうまでもなく、芸術の分野で個別的表現の開花する土壌となる「様式」までも含めることができるであろう。P237

 レヴィ=ストロースを表面的な見方だと批判するが、
現状のわが国の学会はレヴィ=ストロースでさえ、ありがたがる状況ではないのだろうか。
わが国では、反権力的な思考が歓迎されるのだ。
筆者の文字に対する不信と、無文字に対する信頼は、なかなかにおもしろい対比をなす。
書斎的な思考にたいして、現場的な思考とでも言うのだろうか。
既成の思考形式や感受性に風を入れたいと、筆者は本書を結んでいる。
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参考:
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
今一生「ゲストハウスに住もう!」晶文社、2004年
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
青山二郎「青山二郎文集」小沢書店、1987
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002

谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004年 
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」鹿島出版会、1985
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神」河出書房新社、2001
マイケル・ルイス「ネクスト」アウペクト、2002

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