著者の略歴− シンクタンク兼戦略コンサルティング会社エンジェネラの会長。長年、情報技術の進展と、ビジネス、経済社会、文化の関わりを調査し続けてきた。カナダのトロント大学で非常勤教授として教鞭も執る。『ウイキノミクス』(日経BP社、2007年)、『ウェブ革命』(インフレス、2001年)、『デジタルチルドレン』(ソフトバンククリエイティズ1999年)などを含む11冊の共著書があり、いずれも十数カ国で翻訳出版されている。http:www.grownupdigital.com 本書全体でいわんとするところには、まったく賛成である。 デジタル世代を悪くいわれるが、いつの時代も新しいものは理解されない。 人はわからないものに不安なのだ。 だから、新しい物を拒否したくなる。 しかも、若者がわかって、高齢者が理解できなとなると、若者を攻撃したくなるものだ。
どんなに高齢者が威張っても、何年かたてば老人となり、死んでしまうのだ。 そして、若者が残って、社会の主流になっていく。 それはいつの時代でも、変わらない真実である。 生まれたときからデジタルな世界があった世代と、後天的に学習したものでは、発想が違って当然である。 時代を開く鍵は、つねに若い世代にある。 本書は、若者たちに向けられた批判を、まず1つずつ反論していく。 かつては知識は教えられるものだった。 しかし、いまや知識は調べればすむことで、知識そのものが大切なのではなく、考えることそれ自体が大切なのだ。 しかも、考え方自体が、デジタル型へと変わっているのだ。 デジタル世代が子供だった時代、まだ社会的な発言力がなかった。 そのため、趣味などの世界とみられ、政治や経済などには無関係だった。 しかし、いまやデジタル世代が成人し、選挙権を持つようになった。 すると突然、バラク・オバマがアメリカの大統領になってしまった。 ヒラリー・クリントンが圧倒的に有利といわれたにもかかわらず、オバマが逆転した。 我が国では、あまり強調されないが、これは明らかにデジタル世代の働きが大きかっただろう。 まず、資金集めにしても、ネットを使うことが威力を発揮した。 とにかくネットが使えないものは、もはや発言力がないといっても良い。 しかも、ホームページのような一方的な放送型のものではなく、双方向のサイトを構築できる力が必要不可欠である。 世の大人たちは、ネットの世界は危険だという。 プレスリーが登場したときは、やはり危険だといわれて、テレビは彼の全身を写さなかった。 しかし、いまではプレスリーが危険だとは誰もいわない。 ネットの世界も同様だろう。
ボクもアジアや南米を歩いたが、なんども歩いてくると、危険を察知できるようになる。 ここまでは安全だが、ここから先は危険そうだと、自然に察知力がつく。 ネットの世界も同じで、ネットに馴染んでくると、真贋を見分けることができるようになる。 何も判らない大人たちが、危険そうだからと、子供をネットから遠ざけてしまうと、子供には免疫が育たない。 人間には適用力がある。 とりわけ子供には適応力がある。 成人した人間は、すでに適応力を失っているかもしれないが、それはまさに老人化した大人たちである。 我が国の大人たちを見ていると、子供に学ぼうという姿勢が、まるでないことに驚く。 古い教育システムは画一的で一方通行の放送型の学習だった。これは、労働者が命じられたことだけをやっていればよかった工業時代に向けに設計された方式だ。教師は賢者であり、その知識を学生たちに提供していればよかった。学生たちは、試験で優秀な成績を取るために賢者の言葉をありがたく(しばしば一言一句)書き写して復唱する必要があった。普通ではない質問は歓迎されていなかった。(中略) 古いモデルでは教師は放送役だ。放送はその定義からして、送信者から受信者に対する一方向かつ連続的な情報伝達である。学習プロセスでは、教師が送信者であり、学生が受信者である。(中略) 放送役としての教師、そして、テレビ放送のどちらもが視聴者を失いつつあることは驚くに催しないだろう。デジタルの世界で育ってきた子供たちは、インターネットが提供する対話型コミュニケーションの刺激を好み、一方向型のテレビ放送を捨てつつある。P194 今後は、高齢者が教え、若年者が教わるという形は崩れるだろう。 デジタルに関しては、むしろ中学生あたりが、教師たちを教えたほうが良いだろう。 若者のほうが圧倒的にネットに詳しいはずだから、詳しい者が詳しくない者に教える方が自然である。 団塊の世代が育った頃は、家庭のなかはがっちりとした年齢秩序が確立していた。 父親が一番偉く、父親は子供たちを殴りさえした。 そのため、子供たちは自由を求めて、家庭の外へと旅立っていった。 しかし、いまでは家庭のなかも管理されており、家庭の外はもちろん家庭の中にも自由はない。 そのため、ネットの世界へと、逃げ込むしかなかったのだ。 ネットは人々に自由を与える。 活版印刷機が近代を切り開いたように、ネットは人々に発言の自由を確保する。 放送や新聞は一方的な中央集権的で、近代の支配を支える手段だった。 表現の自由があるといいながら、表現の手段は政府や大企業が独占していた。 分裂して支配するのが支配の原則だから、放送や新聞は実に都合のいい手段だった。 ネットは人間を自由に結びつける。 大人たち権力者にとって、ネットは都合が悪いはずだ。 私の提案は、国民が、社会問題への新しい解決策について関与し、学び、それを革新するために、意思決定プロセスにアイデアを提供するための方法だ。機は熟しきっている。今日、公共部門の政策専門家は問題の定義だけで精一杯になっており、解決策の策定どころではない状態だ。次々と出てくる無数の課題に対応できるような専門的知識を、政府機関内部のみで集めることは不可能だ。政府は一部の有権者と公選議員の間での継続的対話の機会を作り出す必要がある。インターネットにより、ウエブベースで背景情報やオンライン討論やフィードバック機能を提供すれば、ほとんど経費をかけずに国民からのインプットを集めることができる。政府は国民のカを借りて政策課題を設定することができ、そのような課題を継続的に更新していくことができる。P381 市民トム・ペインの生きたような時代になっているのだろう。 まだ見ぬ世界を記述することは難しく、どうしても抽象的になりがちである。 証拠を示せといわれても、まだデジタル世界は来ていないのだから、無理な話である。 そうでありながら、筆者の思いは良く伝わってきた。 (2009.8.12)
参考: 木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009 アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003 三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005 クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994 ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000 柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001 山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002 ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005 網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993 R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000 クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994 ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001 谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001) シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001 エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999 村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986 吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982 大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985 ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001 富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001 大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998 東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000 エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991 リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982 柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001 江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967 森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001 エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998 オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995 小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995 佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009 佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009 S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980 北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003 藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007 成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 J ・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009 斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
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