編著者の略歴−ラ・トロープ大学人文社会科学部教授(オーストラリア).元アジア太平洋エイズ学会長など.邦訳された著書に『グローバル・セックス』 (岩波書店).Email:d.altman@latrobe.edu.au 本書は、年老いたゲイの男性が、世界のセックスのあり方にたいして、経済や政治のグローバル化を背景に考えたものである。 長年にわたり、ゲイ解放運動にかかわってきた筆者の本を、筆者に批判的なゲイたちが翻訳している。 この構造は面白いが、我が国のゲイ理論はどこへいくのだろう。 性的な問題が、政治や経済にも絡んでいる。それは概ね同意されるだろう。 では、どう絡んでいるのだろうか。 有力政治家とお妾さんという絡みは、一夫一婦制の浸透した先進国では、もう考えに入ってこない。 むしろ国境を越えて、近代経済の厳しい簒奪のなかで翻弄される人たち、そう考えたほうが良いのかも知れない。
クリントン大統領とモニカ・ルインスキーとの話や、ミセス・ダイアナの浮気や離婚、それにサルコジ大統領の再婚など、男女の仲も随分と変わってきた。 イギリス王室の娘たちは、何人も離婚しているし、生涯添い遂げる男女関係が崩れてきた。 これも経済的な発展のせいだろう。 そして、マレーシアではイブラヒム副首相が、同性愛の嫌疑で有罪判決を受け、政治生命をたたれた。 エイズの影響も大きい。 男性のセクシユアリティを損なうことなく、すべての「体液の交換」も厳格に制限するジャークオフパーティーと呼ばれるマスターベーションの集まりがゲイコミュニティ内部で盛んになってきていることである。1980年代後半以降、西洋の都市にはそのような集まりがよく見受けられるようになり、かつて市当局がゲイサウナを閉鎖した(ニューヨークやサンフランシスコなどの)都市でも、商業ベースのジャークオフスペースが営業されるようになった。一時は、「ゲイの健康と快楽」というグループが主催するマスターベーションの集まりだけがパリのゲイ世界で唯一存在する予防活動かと思われるほど流行した時代もあった。なお、エイズの初期、フェミニストの間にも、同じような形の非挿入型の異性間セックスを開発することができるのではないかという議論があったが、この議論はすでに消滅したようである。P144 ゲイたちはやっとセックスができるようになった。 にもかかわらず、自分からセックスを拒絶するとは、いやはや妙な話である。 男女が仲良くなる方法を考えるのではなく、一部のフェミニズムは精子の提供者として男性を見ている。 とすれば女性たちにとっては、非挿入型の異性間セックスを考えることは有効だろう。 しかし、男女で接触することなく、セックスをすることは不可能だろう。 また、多くの女性たちは、それを望むだろうか。 本書は近代化および植民地化ということをよく考えている。 そのため、植民地化以前と以後では、同性愛に違いがあり、両者には連続性がないと見なしている。 当然だが、なかなかできる見方ではない。 ゲイのなかにホモが隠れており、ゲイたちもまだ少数者だから、ホモを切りすてたくはないのだ。 そのため、両者に連続性を言いたがる。 我が国では、ゲイはまだ少数で、ほとんどがホモである。 成人男性が若年男性を可愛がるホモは、前近代のものだ。 それを筆者はよく知っている。新宿2丁目に関して、次のように言っている。 東京の新宿にある「ゲイ」エリアを歩いていると、スニーカーを履き、野球帽をかぶった数多くの若い男性に出会うが、彼らは北アメリカや北ヨーロッパの若い男性と同様に行動したり、自らをみなしたりしているわけではないのである。P182 ことゲイに関しては、我が国は先進国とは扱われていない。 セックスが生殖と切りはなされてくると、売春もやや違った見方が出てくる。 セックス=子供の誕生だったし、セックスは売買の対象にしてはいけない、と考えていた。 しかし、すべてが商品化される状況では、売春者は労働者になりうる。 女性は仕方なしに身を売るのではなく、ゲイが身を売るように、身体を使った労働者なのだ。 とすれば、より良い労働環境の整備、というように問題は立てられる。 子供とのセックスは、ゲイたちにも大きな問題である。 小児性愛の問題は、男性同性愛者にとっては、特別の問題である。なぜなら男性同性愛者は、二つの衝突する圧力の間にしばしばとらわれてしまうからである。一方では、子どもへの性的虐待のもっとも一般的な形は年長の男性から少女に対して行われるものであるにもかかわらず、メディアには、同性愛と少年愛を混同する傾向がつねに存在する。他方では、多くの男性同性愛者は、自らの経験から、10代の少年からの働きかけにより成人男性との間で性的接触が行われることが多いということを知っており、同性間のセックスに〔異性間〕より高い法定合意年齢を設定することが偽善であることも認識している。P263 これはちょっと首をかしげる。 確かに小児性愛者は、「ロリータ」を見るまでもなく成人男性の少女に対するものである。 しかし、成人男性が若年男性を買っているのも事実であり、それが少年からの働きかけというのは、それこそ偽善だろう。 国際レズビアン/ゲイ連盟は、少年愛を非難することを拒否している。 そのために、国連経済社会理事会のオブザーバーの地位を失っている。 どうしても、若年者の味が忘れられないようだ。 この部分では、筆者もキレが悪い。 解っているようでありながら、身内びいきから、ホモとゲイの区別をつけられないのだろう。 それでも、クイア理論にたいしては、なかなかに厳しい。 性理論におけるポストモダン的転回には、二つの主要な問題がある。理解できない言語を使うほど思考が深遠であるという信念は小さな問題にすぎない。第一に異議を唱えたいのは、言説、パフォーマンス、そして演技の重視が、しばしば物質的現実や不平等に対する無関心を意味している点である。コンネルは次のように主張する。「こうしたアプローチはゲームの参加者にとっては刺激的であり、また外でクイアを装うことは一定の個人的なリスクをたしかに含んでいる。もしそこが同性愛嫌悪者によってパトロールされていたらの話だが。だがそれ以上のものではない。(中略) 第二の問題点は、言説の強調によって、クイア理論が開化できる条件を作り出した社会運動や政治的行為の役割が否定される傾向にあることである。P282 クイアのなかではゲイはエリートである。 だから、クイア理論は、ゲイたちには魅力的だろう。 しかし、なぜゲイが登場したかを問わずに、ゲイがいることを無前提的に話を進めると、我が国のフェミニズムが辿ったと、同じ道を進むことになるだろう。 セックスのあり方にかぎらず、セックスにかんする価値観というものが、先進国でつくられ、我が国などの途上国へと輸出されている。 先進国でうまれた人権概念などに見られるように、土着的な行動や嗜好が、先進国でうまれた価値観によって、組み替えられていく。 それは経済的な活動だけではない。 本書はそうした事情を解き明かしている。 (2010.12.6) 参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005
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