匠雅音の家族についてのブックレビュー   <別姓>から問う<家族>|諫山陽太郎

<別姓>から問う<家族> お奨度:

筆者 諫山陽太郎(いさやま ようたろう)  勁草書房 1997年 ¥2200−

編著者の略歴− 1962年大分県日田市生まれ。1984年 愛媛大学理学部生物学科卒。1985年同大学院修士課程中退。現在:「結婚改姓を考える会」会員。主著:『別姓結婚物語』(創元社、1991年)『家・愛・姓−近代日本の家族思想』(勁草書房、1994年)
ホームページ:http://homepage2.nifty.com/yoyutei/      Email:
mgh03141@nifty.ne.jp
 本書並びに本書の筆者を知らなかったことを、当サイトはいま非常に恥じている。
筆者は良く格闘している。
遅まきながら本書と巡り会えて幸運だったと思う。

 当サイトはもともと夫婦別姓にはあまり興味がなく、法律婚に別姓というオプションがふえた程度にしか考えていなかった。
夫婦で別姓にしたところで、一夫一婦的な法律婚という制度に組みこまれる限り、大した違いはないと考えていたのだ。

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 我が国で庶民が姓をもったのだって、江戸末もしくは明治になってからだ。
だから姓なんて歴史が浅い。
しかし、家族はいや男女は、もっとはるか昔から一緒にいたのだ。
一夫一婦的な家族制度うんぬん以前に、男と女は付かず離れずに生活してきた。韓国では昔から別姓だ。
時代や社会が違えば、姓のあり方は違うのだから、いまさら別姓でもないと考えていたのだ。

 別姓に関する上記の考えを全面的に翻すつもりはないが、<別姓>にも家族解明へアプローチする有効な道があると思う。
別姓も真剣に検討すべきである。
本書は「別姓」とは何かで、次のように言う。

 別姓という言葉について二つの事態を区別することから始めなければなりません。それは、結婚しても姓を変えない女性が増えているという社会現象としての別姓と、法改正や差別撤廃等を求める社会運動としての別姓と、つまり「別姓現象」と「別姓運動」とは、全くとはいいませんが、別の事態だとしてとらえなければならないということです。(中略)「別姓現象」と「別姓運動」とは、もっと大きく根底的な社会変動から生じる二つの枝であって、この二つの枝の間には、相関関係はありうるが、直接の因果関係はないだろう、むしろ機械的に因果関係で説明するならば、「別姓現象」が原因で、「別姓運動」が結果だろう、とややそっけないとは思いましたが、このように答えました。P5

 筆者の言うように、社会現象と運動や理論とは直接の関係はない。
ただ社会現象を理解するためには、運動や理論を知ったほうが判りやすいのだ。
とりわけ新たな社会現象が生じた時、新たな社会現象であるがゆえに、理解の手がかりがないので人々は理解に戸惑う。
だからマスコミを初めとして、何とか理解の手がかりを捜すのだ。
 筆者は実にクールに<別姓>をみている。

 別姓現象と別姓運動との混同を第一の混乱と呼ぶとすれば、第二の混乱は、今、現に存在する別姓と、将来、法改正後に存在するであろう別姓とを混同することです。簡単に言ってしまえば、法改正とは、現在の届出婚の枠内にもうひとつ「別姓」というカテゴリーをつくることであって、決して、現在ある別姓を「合法化」するような法改正ではありません。現在ある別姓、つまり、婚姻届を出して戸籍上は同姓夫婦となった後、改姓した方が通称として旧姓を使い続ける「通称使用」。それから、最初から婚姻届を出さない「事実婚」。法改正は、現在存在するこの二つのカテゴリーに届出婚としての別姓を加えるものでしかありません。単にカテゴリーが一つ増えるだけですから、法改正された後にも旧カテゴリーである「通称使用」や「事実婚」を選択する人はいるだろうし、ましてや、現在ある「事実婚」「通称使用」が法改正によってすべて「別姓届出婚」に流れ込むことなどありえません。別姓選択制の導入とは、別姓の選択肢を二つから三つに増やすことであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。P12

 筆者は別姓を推進するほうに立場するが、別姓反対派にも充分に目を配っている。
理論的にはむしろ別姓派より反対派に傾聴しているほどだ。
この傾向はきわめて健康で、自分の主張は反対派によって鍛えられるので、反対派に耳を傾けるのは大事なことなのだ。

 別姓派は自分の希望を実現したいので、どうしても論理が身びいきになりがちである。
筆者は反対派の論を読むなかから、2つの流れを抽出してくる。「家」制度的家族主義と「家庭」近代家族主義である。
前者は戦前の家制度を引きずる家族主義だから、別姓に反対するのは当然だろう。
しかし、彼らが反対する論理は興味深いものだ。
後者はいわゆるマイホーム派といったら良いだろうか。
こちらは別姓に馴染みが良さそうだが、必ずしもそうではない。

 「家」制度的家族主義とは、家つまり家庭が生産組織であるから、家庭の構成員はすべて労働者である。
しかも、家制度下では家に収入があるのであり、個人に収入があるのでは無かった。
男性も女性も子供も働き手でなければ、肉体労働に支えられた家は維持できない。
伝統的社会では家を維持しなければ、誰も生活できないから、健康な者は全員が働いたのである。
家にいる限り家の姓を称するのは不可避であった。

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 家とは夫婦を軸に成り立っていたのではなかった。
むしろ親子といった縦の系列が軸だったので、今から見ると家族の個々には過酷なこともあった。
戦後の話し、家が崩れ始めた時、家に属しながら勤めに出た人は、給料のすべてを家に入れるように言われたものだ。
家制度からみれば、個人の稼ぎであっても、家にいる以上全額を家に入れるのが当然だったのだ。
なぜなら家では、個人に収入が生じるという観念が成立しないから。

 問題は戦後の近代的な「家庭」近代家族主義である。
醇風美俗を克服するものとして出発した戦後の核家族は、一対の夫婦を中心軸として成立していた。
親子関係から夫婦関係へと、家族の結集基準が変わったのである。

 戦後の新民法では、一夫一婦の夫婦が愛情に基づいて同居し、セックスをすることが前提とされた。
いわゆる恋愛結婚だが、これはアメリカからもたらされた理念だったから、しばらくは定着しなかった。
しかし、1954年(昭和29年)に始まった高度経済成長の頃から、恋愛結婚を正当とする風潮が生まれる。
なにしろ1959年(昭和34年)には、天皇が息子の明仁と正田美智子の結びつきに際して、恋愛結婚を演出したのだから、国をあげて恋愛結婚を推薦していた。
 しかし、恋愛結婚から始まる核家族は、次のような特徴を持っていた。

 戦後、明治民法と共に「家」も形式的には廃止され、公的な家族像は戦後民法による核家族的「家庭」へと移行しました。男女が「自由」に出会い、「愛」しあい、強い「絆」で結ばれて「作られる」ものだとされた核家族的「家庭」は、そこに「ある家」とは格段に個人の「自由」を認めるようなものに見えました。というより、核家族的「家庭」が「作られる」ためには、配偶者の選択が「自由」な「選択」にまかされることがまずは必要なので、この前提条件があってこそ、お互いを「選択」の余地のない最高の結婚相手だと思いこむことが可能となるのです。つまり核家族的「家庭」は、与えられた「自由」を最大限行使し、次にその「自由」を自ら否定するところから「作られる」のです。P51

 核家族は自由を否定するところから作られると、筆者はいささか皮肉っぽく書いている。
新婚さんたちは、生産組織であることから規定される家の属性から自由になったが、法的な核家族をつくることは自由を放棄することだった。
つまり、男女ともに配偶者以外とは性的な交渉をもてず、配偶者を愛し同居することが求められた。
売春防止法が1956年(昭和31年)に制定され、1958年(昭和33年)に施行されたことは偶然ではない。

 一夫一婦の戦後家族は、男女が同姓を名乗ると公的に届けることによって、結婚の法的な保護を受けられるようになった。
愛とセックスのシンボルが、同居して同姓を名乗ることだった。
「家庭」近代家族主義であっても、男女が別姓を名のるより、同姓を名乗るほうが馴染みが良い。

 男女どちらの姓を名のっても良いが、とにかく同姓を名乗ることによって、対なる男女は法という国家の保護下に組みこまれた。
同姓を名乗らないで男女が同居することは、国家の保護を拒否するだった。
そうした背景があるから、対の男女を軸として家族を想定する限り、同姓を名乗ることは必然なのである。

 「家庭」近代家族主義は生産組織ではなかったから、家族としての機能は子育て以外になかった。
女性が子育ての担当者となったのだが、子供に自己同一できるかぎり、女性も生きる手応えがあった。
しかし、個人に基礎をおく情報社会の進展とともに、核家族が個人へと分解していくのは必然だった。
家族の単位が、対から個人へと変わった時、ここで別姓を名乗りたいという欲求が生まれてくる。

 我が国では多くの人は、「家庭」近代家族主義つまり核家族を、いまだに良しとしている。
そのため、別姓を名乗ろうとすることは、「家」制度的家族主義者だけではなく「家庭」近代家族主義者からも、家族を壊すと反対されることになるのである。
もちろん、近代主義者が守ろうとする家族は核家族であって、「家」制度的大家族でもないし、情報社会の新たな家族=単家族でもない。

 別姓を選択しようとしている筆者たちは、残念ながら新たな家族像を提起できていない。
そのため、「家庭」近代家族主義者を論破できないし、自らの論理に自縄自縛されている。
本書を読んでいて、子供の自立が問題だと気づいていながら、その先に進めないもどかさしさを感じる。
映画も好きそうな筆者だが、アメリカ映画が2000年以降格闘しているのが、子供の自立だと知ったら驚くだろうか。   (2013.2.22)
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参考:
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
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越智道雄「孤立化する家族」時事通信社、1998
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
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磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
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S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
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黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001
石坂晴海「掟やぶりの結婚道」講談社文庫、2002
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斉藤学「「家族」はこわい」新潮文庫、1997
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伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
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斉藤環「家族の痕跡」筑摩書房、2006
宮内美沙子「看護婦は家族の代わりになれない」角川文庫、2000
ヘレン・E・フィッシャー「結婚の起源」どうぶつ社、1983
瀬川清子「婚姻覚書」講談社、2006
香山リカ「結婚がこわい」講談社、2005
原田純「ねじれた家 帰りたくない家」 講談社、2003
A・柏木利美「日本とアメリカ愛をめぐる逆さの常識」中公文庫、1998
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001
棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992
加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004
バターソン林屋晶子「レポート国際結婚」光文社文庫、2001
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松原惇子「ひとり家族」文春文庫、1993
森永卓郎「<非婚>のすすめ」講談社現代新書、1997
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伊田広行「シングル単位の社会論」世界思想社、1998
斎藤学「「夫婦」という幻想」祥伝社新書、2009
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匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
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米山秀隆「空き家急増の真実」日経新聞社、2012
原武史「団地の空間政治学」NHK出版、2012
春日キスヨ「家族の条件」岩波現代文庫、2000

諫山陽太郎「<別姓>から問う<家族>」勁草書房、1997

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