匠雅音の家族についてのブックレビュー    逝きし世の面影|渡辺京二

逝きし世の面影 お奨度:

著者:渡辺京二(わたなべ きょうじ)   平凡社 2005年   ¥1900−

 著者の略歴−1930年,京都市生まれ.日本近代史家.書評紙編集者などを経て,現在,河合塾福岡校講師.熊本市在住.おもな著書に,『北一輝』(朝日新聞社),『日本コミューン主義の系譜』(葦書房〉,『評伝宮崎満天』(大和書房〉,『渡辺京二評論集成』〈全4巻,葦書房)などがある.近著に,『日本近世の起源』(弓立社),『江戸という幻景』〈弦書房〉がある.

 近代は終わっている、という。
筆者はほんとうに時代をよく見ている。
近代が終わったというと、すぐポスト・モダンという言葉がでるが、
筆者はポスト・モダンを、「近代というプロセスがすでに完了したことの意味を解さないウルトラ近代的言説にしか聞こえなかった」P581という。
その通りだと思う。
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 ポスト・モダンという言葉には、上記のような感じをもった。
そのため、当サイトはあえて後近代という言葉を使っている。
本書は江戸を賛美しているが、けっして古き日本を誇るためではない。
近代を相対化するのが、筆者の問題感心であり、本書は当サイトの問題意識と、きわめて近い。

 江戸が前近代だとすれば、現代はすでに後近代に入っている。
筆者のような視点をもてたのは、筆者が在野の研究者だったからだろう。
そして、東京に住んでいなかったからに違いない。
日本を題材に使っているが、本書はけっして日本論や日本人論ではなく、近代論である。

 文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧はいまも東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄せ木細工の表わす図柄がまったく変化しているのだ。新たな図柄の表として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚だろう。P16

 文化と文明という言葉の定義はともかく、なんという鋭い指摘であろうか。
かつての宮大工も現代の宮大工も、同じように木工作に従事する。
しかし、その意味するところはまったく違う、と書いたことがある。
筆者も同じことを言っている。
近代というのは、それほど巨大だったのだ。
しかも、人々は近代を意識することさえできないのだ。

 日本の古き良き伝統を賞揚する人たちも愚劣なら、伝統を否定し西洋を崇拝する人たちも、同じ盾の裏面でしかない。
筆者もサイードの安易な引用を、辟易した筆致で描いている。
サイードに対する感慨も、まったく同感である。

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 西洋と我が国の違いは、近代化という歴史の時間を、少し早く経験したか、否かの違いでしかない。
我が国の江戸末から明治初期には、前近代という時代がまだ充分に残っており、西洋はすでに近代に入っていた。
その違いが、人々の行動や意識を大きく違えていたのだ。

 前近代と近代の違いは、西洋人たちも自覚していた。
ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、「伝統主義」と資本主義を対置して、欲望の存在をめぐって同じ観察をしている。
つまり、前近代人は、多くの貨幣を入手しようとするのではない。
習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない、と言うのだ。

 本書に書かれている江戸の人々は、まさに前近代人だったから、天真爛漫だった。
もちろん前近代人だと言ったところで、江戸の人を蔑視しているのではない。
前近代人だって、人格者はたくさんいた。
それは未だ前近代にある途上国を歩いてみると、ほんとうによく判る。
筆者の言葉を使えば、文明のあり方と人間性はまったく関係ないし、幸福感も関係ない。

 モースやバード以下の観察者たちが記録した、彼らからすると奇異に思えるような日本人の生類に対する関係の基礎には、ひとと生類とがほとんど同じレベルで自在に交流する心的世界があった。もちろんこれはなにも、日本文化の独自性といったものではない。それは色合こそ多少異なれ、かつては西洋にも存在した心的世界である。しかしそれは、西洋ではつとに滅び去った世界であったゆえに、19世紀の欧米人に古き日本の特性として印象づけられた。P516
 
 筆者にはこうした歴史認識があるから、時代を相対化し、すべての人間を暖かく見ることができる。
歴史が動くのはなぜか、近代化は必然だったのか、近代は良い時代だったのか、といった価値判断を筆者はしない。
しかし、歴史のなかに動く人間そのものを、素直に見ている。

 筆者のような立場は、右からも左からも叩かれやすいが、
幸いなことに右からも左からも、好感を持って迎えられたようだ。
ただ、筆者の思ったところとは、違った受け止められ方もしているようで、いささかの戸惑いも書かれている。

 「アメリカ人のみた日本の検察制度」などを見れば判るように、外国人の書いた物は、我が国を良く見せてくれる。
それは現代でも変わらない。
江戸末から明治初期が、当サイトの問題感心だったので、本書により深く馴染むことができた。
近代を相対化する視点に、星を献上する。   (2008.2.12)
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参考:
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか」ハヤカワ文庫、1997
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
氏家幹人「大江戸残酷物語」洋泉社、2002
福田和彦「閨の睦言」現代書林、183
田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999年
佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002年
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年


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