著者の略歴−カリフォルニア大学バークレー校で法学を修めた後,フルブライト奨学金を得て1992年から1995年まで日本滞在.その後,パークレーに戻り,1996年法学博士号取得.さらにハーバード大学を経て,現在,ハワイ大学マノア校準教授 情報社会化の進展をみながら、新たな家族のあり方を考える当サイトに、本書の評論を掲載するか迷った。 本書の主題は、当サイトの趣旨と離れると考えたが、あまりにも鋭く現実をえぐっている。 本書の分析は検察制度に止まらず、日本の実社会の分析にまで到達している。 そこであえて本書の評論を掲載することにした。 もちろん星2つを献呈する。
本書は2000年10月まで研究が継続されたもので、2002年にアメリカの読者を対象に出版された。 筆者は、いくつかの大学や財団から資金援助を受けて、日本の検察制度研究のために来日した。 そして、神戸に滞在して検察庁に入った。 その後、15ヶ月にわたり東京に滞在して、検察官や検察制度の調査をした。 本書は検察官へのアンケートも実施している。 検察庁というのは、法務省の一部であり、検察官は行政官僚である。 と同時に、最高裁判所の指揮下におかれている。 法曹一体の原則のもと、司法試験合格者の中から検察官は選ばれている。 その数は2000余人だが、裁判所や警察に比べても、検察官や検察庁の実態が語られることは少ない。 にもかかわらず、日本の検察ほど強大な権力を保有する国家権力は、日本の内外を問わず、他に見つけることは困難である、と筆者は言う。 犯罪の捜査は、まず警察が担当するが、被疑者を起訴するか否かは、検察官だけが持っている独占的な権限である。 いくら警察が捜査しても、検察官が不起訴にすれば、被疑者は公判に付されることはない。 つまり、被疑者が有罪になることはない。 検察官の起訴権独占が、良くも悪くも我が国の検察制度を特徴づけている。 筆者は 我が国の検察官を次のように言う。 もし司法というものが個々の被疑者が必要とするものとそれぞれの状況を斟酌することを意味するとすれば,日本の検察官たちはアメリカの検察官たちより高い評価を与えられるに違いない.もし司法が類似の事件をすべて同じように扱うということを意味するのであれば,その点日本の検察の能力は実に立派なものだ.もし司法がただ処罰するだけではなく,治癒を促進すべきものだとすれば,日本の検察官たちはアメリカの検察官たちより,治癒能力が高いと評価されるに違いない.そして,もし司法が真実を掘り起こし,明らかにすることによって成り立つとすれば,日本ではそのことこそがすべての基礎として,いかに重視されているかということを読者は理解するであろう.以上の点を始め,いろいろな点において日本の司法制度はかなり公正である.<序文から> 日本の検察制度を称賛することから、本書は始まる。 しかし、我が国の検察制度また裁判制度は、批判されるべき部分がないとは言えない。 何よりも起訴権の独占によって、裁判が始まる前に、実質的にすでに裁判が終わるという最大の問題がある。 しかも、99%以上の有罪判決を維持しようとするので、検察官は科学的な証拠よりも、自白を得ることに拘る。 自白の強制は、冤罪の温床である。 我が国の被疑者は、きわめて長時間の身体拘束にさらされ、先進国では許されない自白の強制が行われている。 また、自白を取るために、検察に迎合する人間には優しいが、自白をしない人間には強引な捜査が行われる。 だから、結果として司法取引になる。 また、自白が得られない事件は、起訴しない傾向があるので、検察官が裁判官の役割を果たすことになる。 起訴便宜主義は、検察の強大な権限を根底で支えている。 検察官が捜査もし、取調の調書をつくる。 そして、膨大な調書を初め、すべての証拠を独占して、外部には公開しない。 弁護人からの証拠開示請求は、検察官の承諾のあるときだけ、わずかに認められる。 起訴独占主義のもとでは、裁判官も刑事事件を真摯に裁判する気がなくなり、起訴された事件に有罪判決を書く前提で公判に臨むことになる。
日本の検察官は、被疑者の更正に尽力するという。 これも自白を得ることが前提である。 黙秘している者には、より一層の厳しい取調が待っている。 被疑者の更正に尽力することは、一見すると良いことのように見える。 しかし、被疑者の更正が可能であると前提することからは、マインドコントロールの発想が生まれる。 自白を得て改心させるという構造は、江戸時代の大岡裁きに端を発し、戦中に転向を成功させた経験によって強化されたのだろう。
この体験は、人間の意思は権力が改造可能であり、また邪悪な人間は思想改造をすべきだ、とすら信じさせたことだろう。 更正への信仰は、日本的な土壌と相まって、絶対の悪を生まなかった。 そのため、絶対の正義も登場する契機を削がれ、権力にとって都合のいい微温的かつ強権的な取調が実現した。 国連人権委員会は日本国に対して,取り調べの長さ,場所,および方法,証拠としての自白への過度の依存,そして被告側に対する証拠の開示不十分等について,議定書に違反しているとしてたびたび厳しい非難をしてきた.その結果,多くの改革派の人々は日本が「いつまでも国連の勧告を無視するわけにはいかない」という点で意見が一致しつつある(平野龍一,1999:4).日本的な司法の礼讃者でさえも,「有罪であろうとなかろうと,23日もの取り調べに耐えられるだけの精神力がある者はまずいない」という(Foote,1991:436).P356 いかなる事象も、その世界だけで完結することはない。 検察官も検察制度も、我が国の政治風土や、社会的な常識を背景にして成立している。 極めて日本的な特徴を体現している。 国民にあった政治しか持てないと言うように、検察制度も国民にあったものしか持てない。 検察が近代的な人権認識に欠けているといっても、それは国民の人権意識の反映であり、人権意識の希薄さは日本人そのものである。 凶器準備集合罪を見れば判るように、法律は一度成立すると、立法目的を離れて適用対象を簡単に変える。 盗聴法なども、本来は政治家の汚職や、企業犯罪などを目的としたもののはずだが、むしろ適用対象は反政府的な行動に向けられる。 司法取引の禁止も囮捜査の禁止も、我が国の刑事風土では当然かも知れない。 しかし、司法取引や囮捜査は、組織犯罪を対象にした捜査方法であろう。 自白に依拠した有罪率の高さを誇るだけでは、企業犯罪や政治家の犯罪には有効性をもてない。 刑事事件に関しては、いまだにお上が民を裁き、改悛させる大岡裁きが蔓延している。 刑事・民事を問わず、訴訟法の文面は裁判所が下々に命令している。 訴訟法の文面では、主権在民はどこの話だろうかと感じる。 企業の上層部や政治家は、支配階層と繋がっているので、犯罪捜査の対象にしたくないのだろうか。 だから、裕福な人間には、我が国の検察は極めて甘いのだろう。 本書はアメリカのみならず、他の国の例もいくつか上げている。 それを読むと、いかに我が国の近代が、特殊か判る。 起訴便宜主義は、検察官の犯罪を許し、強者の起訴をためらわせることになる。 今後、有罪率を維持しようとすれば、起訴率や検挙率を下げざるを得ず、検察も困難な選択を迫られるだろう。 多くの法理論やフェミニズムのように、舶来の理論依存だけではなく、我が国の現状分析まで、外国人に優越されるのかと、いささかの感慨が生じたのは事実である。 しかし、我が国の検察制度に止まらず、社会現象まで射程に入れた論考として、本書は感動すら感じさせた。 注も丁寧につけられており、一読の価値がある。 (2004.11.05)
参考: ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987
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