匠雅音の家族についてのブックレビュー     累犯障害者−獄の中の不条理|山本譲司

累犯障害者  獄の中の不条理 お奨度:

著者:山本譲司(やまもと じょうじ)  新潮社、2006年    ¥1400−

 著者の略歴−1962年北海道生まれ、佐賀県育ち。早稲田大学教育学部卒。菅直人代議士の公設秘書、都議会議員2期を経て、96年に衆議院議員に当選。2期日の当選を果たした2000年の9月、政策秘書給与の流用事件を起こし、01年2月に実刑判決を受ける。433日に及んだ獄中での生活を『獄窓記』(ポプラ社)として著す。同書は04年、第3回「新潮ドキュメント賞」を受賞。他の著書に『塀の中から見た人生』(安部譲二氏との対談。カナリア書房)がある。
 山本譲司という名前は、どこかで聞いたことがあるだろう。
国会議員としては珍しく、いや普通の人でも珍しい。
執行猶予の付いた刑でありながら、実刑判決として受け止め、服役した人物である。
(当初、上記のように書いたのは間違いで、一審で実刑判決がでて、控訴しないで服役した人物である、が正しい。同じ筆者の「獄窓記」を読んだが、控訴しないで服役したのは、政治的な判断だったようだ。上記を訂正します。2008.04.20)
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 筆者は、監獄の中で、意外な受刑者をみる。
それが障害者の受刑であった。
どんな人種であっても、知的障害者は全出生の2〜3%程度は誕生する。
このすべてが犯罪を犯すわけではない。
むしろ、知的障害者は能動性が低いので、犯罪率は低いが、そのうちの何人かは犯罪を犯す。

 犯罪者は受刑するのが当然だが、
その犯罪が障害ゆえになされたものだとしたら、
いまの刑罰制度とは少し違う見方が必要である。
刑法39条が、心神喪失や心神耗弱による条文を定めながら、我が国の知的障害者は、
健常者とまったく同様に裁かれている。

 知的障害者は、自分の行動の意味すら認識できない。
にもかかわらず、同じように科刑されている。
筆者は獄中でそれを知った。
そして、出所後、障害者の犯罪が、なかば人為的に作りだされ、
しかも、触法障害者には福祉の手が、届かない現実を告発し始める。

 目次には次のような事件が並ぶ。

序章 安住の地は刑務所だった  下関駅放火事件
第1章 レッサーパンダ帽の男  浅草・女子短大生刺殺事件
第2章 障害を食い物にする人々  宇都宮・誤認逮捕事件
第3章 生きがいはセックス  売春する知的障害者女性たち
第4章 閉鎖社会の犯罪  浜松・ろうあ者不倫殺人事件
第5章 ろうあ者暴力団  「仲間」を狙いうちする障害者たち
終章 行き着く先はどこに  福祉・刑務所・裁判所の問題点


 法務省の発表によれば、受刑者の30%が知的障害者だという。
犯罪を犯した者にとって、知的障害とは何を意味するのか。
それは罪を犯した反省が、健常者とは異なると言うことだ。

 本書は、聴覚障害者の認識構造に論及して、恐ろしい指摘がある。
手話で意志の疎通を図る人たちは、健常者と異なった認識を持っているという。
ろうあ者も健常者も、同じ認識構造を持つと考えているが、そうではないらしい。
だいたい健常者が使う手話は、ろうあ者には良く理解できないのだという。
この指摘には考えさせられるものがある。

 多くの知的障害者は、他人とのコミュニケーションを苦手としている。人との交流を通して身に付けるはずの倫理的基準が、知識としてなかなか備わらない人たちだ。したがって、法を犯した場合も、容易には反省に結びつかない。よしんば反省に辿り着いたとしても、その意思を外に向かって発信するスキルがない。(中略)
 この国の司法はいま、彼ら知的障害者の内面を窺う術を持ち合わせていない。結果的に彼らは、反省なき人間として社会から排除され、行き着く果てが刑務所となる。P59


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 精神障害者、知的障害者、認知症老人、聴覚障害者、視覚障害者、肢体不自由者など、一般受刑者と同じ作業ができない者を、一カ所に集める。
これらの者を矯正することは、現在の制度では難しいから、「寮内工場」なる場所に隔離することになる。
そして、精神病院も収容施設になってしまう。

 大家族の時代には、家族が福祉の役割を担い、政府は福祉など意をもちいなかった。
しかし、工業の発展にともなって、大家族が崩壊すると、
家族は福祉を担えなくなる。
そこで税金で福祉を賄うようになるが、
我が国をはじめ途上国では、福祉を社会の仕事だとみることが少ない。
途上国ではどこでも福祉は貧困である。

 我が国の福祉はずいぶんと改善されてきたが、途上国的な福祉の変形は残っている。
我が国において福祉を受ける人間は、
健常者と同じ楽しみを持ってはいけないようだ。
福祉制度の中で、制度を守る限りで辛うじて生かされている。
これでは血の通った福祉になるはずがない。

 我が国では売春は違法である。
しかし、知的障害の女性にとっては、売春といえども人間的な触れあいの側面があるという。

 彼女たちは、風俗や売春の経験を語る時、本当に嬉々とした表情を見せる。きっと、人生の中で一番ちやほやされていたのが売春の現場であり、売春組織の人間からも、同じように持て囃されていたのではなかろうか。そしてそれが、彼女たちにとっての「生きがい」になつていた。そう考えると、彼女らの笑顔も納得できるが、それではあまりにも切な過ぎる。
 では、そんな彼女たちを支援すべき福祉のほうは、どうなのだろうか。残念ながら福祉の世界は、彼女らを画一的な福祉政策の中に縛り付けているだけなのかもしれない。そのうえ、多くの福祉関係者は、知的障害者の恋愛を極度に嫌っている。「セックスなんて、とんでもない」といった状況である。したがって福祉の枠の中にいる知的障害者は、ほとんどの場合、恋すらできないのだ。
 いまは毎日、斉藤さんに紹介された福祉作業所に通う香奈子さん。別れ際、私が「作業所での仕事、がんばってください」と声を掛けると、彼女は虚空を見詰め、ふと呟きを漏らした。
「でも、いまのあたしって本当に人間なの?」P123


 肉体労働が支配的な価値だった時代には、身体障害者が差別の対象だった。
肉体労働に不向きな身体障害者は生活が厳しかった。
しかし、知的な労働が主流になると、身体障害は障害にならず、
知的障害者の生活が厳しくなる。
知を求める社会が、知的障害者を差別する。
今後、知的障害が生きていくのは、ほんとうに難しくなるだろう。

 筆者は、障害のある受刑者にとって「獄」といわれる場所は、
刑務所の中よりも、むしろ塀の外の社会のほうではなかったのか、
と言っているが、そのとうりだろう。
肉体労働の時代に身体障害が障害だったように、頭脳労働の時代には知的障害が障害なのだ。
だから、頭脳労働から隔離された刑務所こそ、知的障害者には安住の地になってしまう。

 肉体を空間的に拘束することが科刑である以上、現在の刑罰は肉体を対象としたものだ。
精神を科刑の対象にすることはできない。
にもかかわらず、刑務所の外では、ますます頭脳や精神で生計をたてるようになる。
現代社会は肉体を価値とは見ないが、刑務所だけが肉体を相手に成り立っている。
そのため、このパラドックスを解消するのは、きわめて難しい。

 筆者の心労はよくわかるが、今後ますます知的障害者の犯罪は、問題視されていくだろう。
そして、頭脳労働の時代には、知のあり方が問われるから、
社会は知的障害者と対面せざるを得なくなる。
困難な問題である。     (2007.06.28)
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参考:
鈴木邦男「公安警察の手口」ちくま新書、2005
高沢皓司「宿命」新潮文庫、2000
見沢知廉「囚人狂時代」新潮文庫、2000
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006
足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005
三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003
浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005
山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000
菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002
有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005
佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001
管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007
浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004
藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001
ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008
小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001
芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987
D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004
河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004

河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009

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