著者の略歴−憲法学者。1923年生まれ。東京大学法学部卒。東京大学教授、学習院大学教授を歴任。1999年没。憲法の基本的理念の発展を目指して憲法訴訟論を開拓。人権の性質に応じた具体的な違憲審査の基準を提唱した。著書に「憲法」(岩波書店)「憲法訴訟の理論」「現代人権論」(ともに有斐閣)「憲法制定権力」(東京大学出版合)など。 古典でもないのに、すでに死んでしまった人の著作を取り上げるのは、ブックレビューとしては新鮮さに欠けるとは思う。 しかし、憲法論議が活発化した今でも、この筆者が憲法にかんして、第1人者として語られる以上、取り上げてみるのも無益ではないだろう。
本書を一読して驚くのは、我が国法律界の植民地性というか、独自性や哲学のなさである。 憲法理論が、輸入品の継ぎ接ぎに驚かされる。 我が国のフェミニズムが自分の言葉を持たず、全員が輸入品で武装していることを、本サイトはしばしば嘆いてきた。 しかし、法律界も同様である。 戦前はドイツを中心とした大陸法の、そして今では、アメリカからの影響がきわめて大きい。 本書は我が国の憲法を語りながら、その実アメリカの憲法論の紹介に終始している。 宮沢俊義を継いで、東大の憲法学者だった筆者が、外来法律学に染まっていることは、他のどの学者もが、外来法律学の支配下にあることなのかも知れない。 伝統文化を大切にと言っている裏では、じつは外来文化が支配しており、現在の我が国の現実から生まれた概念は、見向きもされない。 そのために、日本生まれの概念は、なかなか認知されない。 本書からは、そんな構造が透けて見えるようだ。 大陸法系から英米法へと、大きく梶を切った我が国の司法界だが、その混乱はいまだに続いている。 日本の場合、敗戦を契機にアメリカのいわば強力な指導によって憲法が制定され、現代型の社会権を含む人権宣言が作られたわけですが、その結果、明治憲法時代から一足飛びに自由権と社会権という二つの性質の相ちがう権利を実現していかなければならないというむずかしい課題を背負わせられることになったわけです。というのは、社会権を重視すればするほど、権力の介入をむしろ認めていかなければならないのですが、自由権を重視すれば、権力の介入をできるだけ排除していく必要があります。ところが最近の憲法では、自由権と社会権の二つを必ずしも割り切って考えられない場合がいろいろなかたちで出てきているのです。P56
自由権と社会権への視点が定まっていない。 古い道徳への依存が、あちらこちらに感じられる。 法と道徳の分離は、近代法においては不可欠のはずで、尊属殺人への対応にもやや疑問がある。 アメリカでの判例に関しては、さすがに詳細である。 憲法判断に関して、精神的なものと経済的なものをわける、いわゆる二重の基準の理論は、筆者が熱を入れて勉強したらしく説得力がある。 二重の基準の理論は、もともとアメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論ですが、その内容、中味を簡単にいえば、@精神活動の自由の規制は厳しい基準によって合憲性を審査する。A経済活動の自由の規制は立法府の裁量を尊重して緩やかな基準で合憲性を審査する。こういう考え方であります。P98
筆者は嘆くが、実は筆者の体質は最高裁と、たいした違いはない。最高裁と筆者は、結局のところ同じ穴の狢であり、体制の権力を支える方にいるように感じる。ここでは筆者の学問は、功利的な支配の道具になっているように思う。たとえば、検閲に関しては、行政によるものを検閲と見て、裁判所によるものは検閲ではないような言い方である。
どちらの説をとってもそれほど結論的に違うわけではないのですが、ただ、論理の筋道にちがいが出てきます。P221 筆者が、アメリカの判例をよく勉強しているのは判る。しかし、行間から筆者の法哲学が立ち上ってこない。「ラリー フリント」で、アメリカの最高裁判所が見せた、歴史を切り裂くような時代感覚とか、ぶあつい法哲学を、我が国の法学者に要求するのは、無い物ねだりであろうか。筆者の立場が、我が国の法曹界従事者の多くを育ているものだったことを考えると、あまりの底の浅さに呆然とする。 もう一つ疑問だったのは、これだけアメリカから法律理論を輸入しながら、アメリカ最高裁と我が国の最高裁では、何故これほど際だった違いがあるのか。 アメリカの最高裁は、良きにつけ悪しきにつけ、しばしば時代を画する判決を出している。 それに対して、我が国の最高裁は三権分立に隠れて、立法府のご機嫌伺いに成り下がっている。 統治行為論や司法消極論など、自己規制が甚だしい。 この差はどこにあるのだろうか。 市民セミナーでの講演を、速記からおこして一冊に編み直したという。 やさしい形であればあるだけ、筆者の哲学が鮮明にでるものである。 本書は多くの版を重ねており、良く読まれているらしい。 しかし、碩学といわれる東大法学部教授が、アメリカ憲法学の紹介者にすぎないとは、いささか落胆の思いである。 (2003.12.19)
参考: ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版会、2002 桜井哲夫「近代の意味-制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫
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