匠雅音の家族についてのブックレビュー 女と刀|中村きい子

女と刀
お奨度:☆☆

著者 中村きい子   ちくま文庫、2022(1988)年 ¥1,000−

著者の略歴−1928年、鹿児島生まれ。小説家。谷川雁、上野英信、森崎和江らが中心となり1958年に創刊された「サークル村」に参加。本作「女と刀」で第7回田村俊子賞 (1967年)を受賞。他の著書に『わがの仕事』(思想の科学社) がある。1996年没。
  これほどのフェミニズム論を見逃していたとは、まったく我が不勉強を痛感することしきりである。 フェミニズムが体系化されてきたのは最近だから、読み落ちがあるの仕方ないかも知れないが、「思想の科学」で見いだされたとあるから、やはり不勉強だったとしか言えないだろう。

 本書は江戸末から太平洋戦争まで、鹿児島に生まれた女性の一生を小説化し、働くことを金科玉条にした生き方が見事である。 筆者の母親キヲを主人公にしている。キヲはとにかく頑固一徹、なぜかと納得いくまで考え続ける。意見の違う相手にも納得する返事があればよし、納得できないときはとことん追求する。 ただ差別反対を言うのではなく、とことんその原因を追及するキヲの姿勢が素晴らしい。

 鹿児島の薩摩藩では大勢の武士を抱えたため、全員を城下に住まわせることが出来なかった。外城制という制度が生まれ、遠くの領地にも武士を住まわせた。 城下士に対して外城士と呼ばれた彼等は、いわば二級の武士だった。しかし、二級であるが故に、武士のプライドが高く、武士は食わねど高楊枝を地で行っていた。

 キヲは西南戦争で負けた父の教育を受けて育った。外城士だった父親は、女のキヲに対して自立せよと厳しく教え込んだ。 その教育をまともに信じて、キヲは男以上の見事に自立心溢れる人間に育った。父親との衝突は、キヲの結婚の時に表面化する。 自分で考えて自立を教えてきた父が、キヲの結婚を一存で決めてしまった。 男と同じ教育を受けた例が、「武士の娘」を書いた杉本鉞子であったが、杉本鉞子は素直に育った。

女と刀
  跳ね返り娘には、叔母さんの初女という先達がいた。家格の違う相手との結婚は許されなかった時代、士族の娘が無頼の徒と結婚しようとした。 とうぜん縁切りということになるが、初女は無頼の徒:天龍金と密通を続け、結婚制度の外で生きた。初女の生き方はカッコイイ。キヲに大きな影響を与えた。

 相手を知らないまま結婚させられると思ったキヲは、考え判断する情報をくれと父親に迫る。しかし、いつもと反して親の決めた相手と結婚するのが、家や士族のしきたりだという。 好き合った同士で結婚するのは、ザイと呼ばれる庶民のすることだといって取り合わない。 一度は結婚させるが、娘を「夜叉」と呼んだと言って、父親は婚家から強引に連れ戻す。その後、キヲは再婚する。相手は頼りない男であった。

 再婚後、キヲは多くの子供を産み、農業に精を出す。そして、農地を少しずつ買い求めていく。 長男の紀一が小学校4年生になった時、担任が差別をしたことに抗議して、紀一はクラスの半分を率いてストライキを起こす。そのとき、キヲは紀一に次のように言う。

  いかに母親であろうとも、意向はたてよという血は授けても、それより先のおまえの生き方は、もはやわたしのものではなかとじゃ。 自我は各々、それでもおまえはおまえであるという確立を、その血のところでたてなけならぬ。 そのことを胸にうちこんだところで、このたびのことも、教師がなにゆえにおまえたちに差別をしたか、そこの根のところをただし、そして切りとるというところまでいかぬと、 いくら枝ばかりゆすってみても木はいっこうに枯れぬと同様、ことはぬらりくらりと流れてしまう。 教師が差別をせんとならん原因が、おまえらのことに士族の血をひくおまえの、どこにあるのか。 それを教師から確とした答えをとるまでは、それを突く手はゆるめやいめど。そのやりかたもおまえの胸ひとつでやりなされ。P186

 キヲは一事が万事、表面的な現象に対処するのではなしに、争点の根本的な原因まで遡ろうとする。そして、原因を相手に問い詰めていく。 この姿勢が、キヲの生きたかの根本だった。女でも男と同じように働くと、当時の家制度と衝突した。男も女も多くの人たちは現状維持を良しとするから、 不平等であっても適当なところで矛を収めようとする。

 当時の基準は「家」の維持であった。しかし、幕末から明治になると、家を維持することは現状と衝突するようになる。 キヲはますます先鋭化して、独力で生きていこうとする。彼女の味方も、飛び抜けた彼女を持てあますが、キヲは頑として自我を貫く。 そして、70歳を超えて、離婚し自活の道を歩き始める。それは潔い。あれほど苦労した生き方ながら、生まれ変わっても女でありたいと、娘の成にいう。

 ああ、それでもじゃよ。それでもわたしは、やはり「女」と生まれたことがしあわせとおもうのじゃよ。おまえの言うとおり、わたしの生いたちの時代は、まさしく男の天下であった。 それでも、そのながれのなかで、反り身で生きてきた女の肌の重みというものを、知り、そしてわたしの生きてきたというこの時間のなかに刻みつけてきた。 男に生まれていたら、おそらくこの重みは知らずにすんだろう。しなやかということでは、千の槍も通さぬしなやかな女の肌というものを、成よ考えたことがあるかの。 ここのところで男は淡い。実に淡すぎる。それゆえにこそ、このあといくたび生まれ変わろうとも、わたしがねがうのは女じゃ」P400

 筆者による脚色はもちろんあるであろう。しかし、キヲはおおむね本書に近い生き方をしたに違いない。それを母の一生として文章化したものだ。 多くは女という立場で苦労したから、今度は男に生まれ変わりたいと言うが、キヲは女だという。とにかく働くことを第一義としている。 農耕社会だった当時は、キヲのような生き方が可能であった。肉体労働は正直だ。脱帽である。

 初版時に鶴見俊輔によって解説が書かれている。そのなかに次のような文がある。

 この本には、明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある。明治百年が日本の男が表にたって指導した歴史であったことと考えあわせるならば、 明治以後の日本の男たち全体を見かえす力がある。その明治百年が、敗戦後の年月をふくめていることはもちろんのことで、この本は、戦後民主主義の批判の書でもある。 戦後日本の民主主義を批判するだけでなく、地上のさまざまの民主主義のそだてやすい人間性のもろさを見すえてしかりつけるようなきびしさをそなえている。
 そのしかりつける語り口は、男にだけ向けられるものではない。女もまたしかりつけるだけの公平さをもっている。こうしかりつけられていてはかなわないという感想も、 時にはわいてくるのだけれども、男はみなよくない、女は正しいというような思想によって書かれた本ではなく、人間全体をしかりつけるすがすがしい語り口に感動する。

 まったく同意するが、叱りつけているのではなく、キヲの生き方を見せているのだ。すがすがしい生き方である。 「思想の科学」を軽んじていたが、本書を発見したことで少し見直した。       
(2022.4.1)
 
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参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997
亀井俊介「性革命のアメリカ」講談社、1989
イーサン・ウォッターズ「クレージ・ライク・アメリカ」紀伊國屋書店、2013
エイミー・チュア「Tiger-Mother:タイガー・マザー」朝日出版社、2011
清泉 亮「田舎暮らしの教科書」東洋経済新報社、2018
柴田純「日本幼児史」吉川弘文館、2013
黒川伊保子「妻のトリセツ」講談社α新書、2018
先崎学「うつ病九段」文藝春秋、2018  

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