匠雅音の家族についてのブックレビュー    学校は必要か−子どもの育つ場を求めて|奥地圭子

学校は必要か
子どもの育つ場を求めて
お奨度:

著者:奥地圭子(おくち・けいこ)−−日本放送出版協会、1992年 ¥870−

著者の略歴−1941年、東京に生まれ、広島に育つ。横浜国立大学学芸学部卒業後、1963年より22年間、公立小学校教師。1985年、退職し「東京シユーレ」を開設、主宰する。登校拒否を考える会代表・登校拒否を考える各地の会ネットワーク代表。著書に『女先生のシンフォニー』(太郎次郎社)、『登校拒否は病気じゃない』『東京シユーレ物語』(教育史料出版会)、共著に『さよなら学校信仰』(一光社)、『お母さんの教育相談』(筑摩書房)、『登校拒否なんでも相談室』(草土文化)、手記収録に『学校に行かないで生きる』(太郎次郎社)、『学校に行かない子どもたち』(教育史料出版会)、ビデオ監修に『ここならグー』(ジャパンマシニスト社)
 高校進学率は96%に達し、大学進学率は40%を超えるようになった。
誰でも学校へ行くようになって、小中学校の生徒たちが、学校に行くことを拒み、自分たちの居場所を捜し始めた。
やっと今、登校拒否といった形で、学校が問われ始めたのである。
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学校は必要か

 近代になってできた学校は、工業社会の人的な資源を作るためにできたものである。
だから、一律の大量生産的な教育こそ適合的だった。
高度な中央集権的教育によって、わが国に限らず後進国は近代化を成し遂げてきた。

 アジアの勃興に、義務教育の徹底が果たした役割は大きい。
中央集権的な教育の果たした役割を、けっして否定するものではない。
しかし、学校教育を順調に過ごした先は、就職である。
就職し、仕事に励めば、手応えのある自分の人生が入手できるかと問えば、必ずしも肯定的な解答は出てこない。

 学校から就職するというサラリーマンのコースは、はっきりと先が見える。
住宅ローンによって住む家を手に入れ、ローンを払い終わる頃には退職し、それで終わりである。
時代が貧しく、人生が短い時代にはそれでも良かった。
農耕社会は喰うこと自体が厳しかったのだから、学校を出ることによって人生が保証されるとすれば、誰でも学校へ行くのは当然だった。

 工業社会の終盤になると、知識それ自体が取引の対象になる情報社会が誕生した。
そこでは大量生産といった規格化されたものではなく、ユニークな個性が役に立つ。
情報社会は工業社会が実現した豊かな社会である。
そこではユニークな独創性が、より一層の豊かさを生みだすのである。
豊かな社会になって、教育のあり方は根底的に変わらなければならない。
しかし、今日の学校は工業社会のままである。
登校拒否者が出るのはまったく自然である。

 自分がそういう行為を誘発していることなど考えず、子どもばかりを責め、自分の望むような子の像ばかり押しっけておられる。自分本位なのはどちらだろうか。"学校へ行くことがあなたの善なのよ"と決めつけられては、子どものほうはたまらない。 P201

と、この筆者は考える。
善意の押しつけは、悪意による強制と変わらない。
登校拒否者の行く先として、筆者は「東京シューレ」を主宰して15年になる。
筆者は学びを否定するのではない。
人間は先人からの文化を受け継がなければ、今の生活を作り得なかった。
だから東京シューレでは、国語も算数も理科も社会もある。
しかし、それは押しつけではなく、子供たちが学びたいときに学ぶものだという。

 東京シューレのような学びの場所を、創造し維持していくのは大変だろう。
前例のない世界だろうし、通常の学校常識から外れているので、保護もなければ援助もないだろう。
しかし、いつの時代も主流を外れてしまった人たちから、新たな芽は生まれてくる。
東京シューレからのオチコボレだっていただろう。
本書は失敗例を書いてないが、それでもって筆者の活動が低められることはない。
先蹤者は失敗があって当たり前だから、むしろ失敗例をも書くべきだったように思う。
失敗例から学ぶものが多いはずである。

 本書は、学校は不要と結論付ける。
そして、子どもの育つ場を、学校以外にもつくってきた。
こうした活動が、これからの子供たちを育てていくのだ。
とても温かい気持ちになって本書を読了した。
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
奥地圭子「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998  
広岡知彦「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」朝日新聞社、1997
クレイグ・B・スタンフォード「狩りをするサル」青土社、2001
天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988
ボール・ウイリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991

江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980


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