匠雅音の家族についてのブックレビュー    純潔の近代−近代家族と親密性の比較社会学|デビッド・ノッター

純潔の近代
近代家族と親密性の比較社会学
お奨度:

著者:デビッド・ノッター  慶應義塾大学出版会 2007年  ¥2500− 

 著者の略歴−慶應義塾大学経済学部准教授。1964年、米国生まれ。オベリン大学(oberlin College)卒業。京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。論文に、「近代家族と家族感情」(稲垣恭子編『子ども・学校・社会:教育と文化の社会学』世界思想社、2006年)、「純潔の構造:聖と俗としての恋愛」(『ソシオロジ』150号、2004年)、「スポーツ・エリート・ハビトウス」(共著、杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』世界思想社、2001年)などがある。

 文化、歴史、比較、そして、理論的アプローチをとおして、
純潔をキー概念にしながら、近代におけるロマンティック・ラブと男女交際を考察している。
アメリカの近代との比較しながら、恋愛のあり方、ロマンティック・ラブと、といったことから、
近代家族を考えて興味深い。
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 戦前の農村部では、夜這いや若者宿などがあった。
セックスを行うのは、既婚者だけではなかったし、愛情とも絶対的な関係があるとはいえなかった。
つまり、前近代にあっては、結婚できる人間は限られていたし、
人口のコントロールは個人的なことではなく、出生は村落共同体の重要関心事だった。

 戦前までの庶民層では、結婚とセックスは一致しておらず、
男女が馴染みになることは、そのままセックスをともなっていた。
セックスは愛情という言葉とも、いくらかの距離があり、
セックスと愛情には近似的な関係はあるものの、直接的な関係はなかった。

 戦後の恋愛結婚では、結婚してはじめてセックスするという前提だった。
そして、人となりをよく知ってから結婚する手はずだった。
しかし、結婚前にはセックスが制限されていたので、人となりを知るには、若干もどかしいものがあった。
恋愛結婚といいながら、セックス抜きの恋愛は、欺瞞といっても良いものだった、と思う。

 婚前交渉なる言葉がはやり、結婚前の性交渉は是か非かといった論争が、つい最近まであった。
つまり、結婚してはじめてセックスすべきであり、
それまでは肉体的な交わりをしてはいけない、というのが戦後の恋愛結婚の掟だった。
戦後、とりわけ正田美智子さんの結婚以降、普及しはじめた恋愛結婚は、
我が国の男女関係や結婚観に大きな変化をもたらした。

 しかし、筆者は次のように言う。

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 「純潔」の規範の成立は、これまでみてきたように、日本でも、アメリカでも、近代家族の成立と同時期であった。もちろん、日本にも、アメリカにも、それまでにも両国に貞操観念は存在していたが、日本の大正期やアメリカの19世紀に成立した純潔概念はそれとは異質であると思われる。新たな純潔概念は女性に押し付けられたものというよりも、女性が自ら求めたものであり、また「ホーム」という新しい家族概念と表裏一体をなす新しい女性像を裏付けるように働いたのである。P55

 女性の意識としては、女性が純潔を自ら求めたのであろうが、
その背後には、核家族の成立があることを見過ごすべきではない。
核家族にあっては、女性は専業主婦となる以外には生きていく道がなく、純潔だけが男性への対抗財産だった。
 
 稼ぐ手段を剥奪された女性は、結婚相手の子供を出産することにだけ、存在意義をもったと言っても良い。
核家族をつくる恋愛結婚では、純潔を保つことによって、結婚相手以外の子供は妊娠していないことを証明した。
核家族の成立は、男性だけの稼ぎで、社会的な生産がまかなえる時代になったことの証だった。

 筆者は「機械的な」認識論的アプローチを機能主義として批判している。
たしかに、人間の動機が、時代の変化と構造的に連動しているという主張は、
マルクス主義的な発想であり、限界があるのは理解する。
しかし、文化的なアプローチは、何でもありの論になってしまうのではないだろうか。

 ロマンティック・ラブだけが結婚の動機だというのは、
アメリカでは言えるのかも知れないが、我が国ではどうだろうか。
我が国では、もっと打算的であるのは、いつの時代でも言えるのではないだろうか。
本書は興味深い指摘をしてはいるが、文化相対論でしかないように感じる。

 家内性の核として、夫婦愛と親子愛とをもちだし、近代家族の解体後に触れている。

 アメリカでは近代家族の崩壊をみたのは、1960年代の終わり頃から70年代にかけてであったのに対して、シングル・マザーの少なさや性別役割分業体制の根強さなど、日本型近代家族がゆるぎつつあることは明らかであるとはいえ、まだ崩壊しているとは言い切れない。比較の観点からみれば、アメリカでみられた近代家族の徹底的崩壊と、日本でみられる近代家族の執拗な残存との対比の背景にある要因として、家内性の核のあり方があるであろう。P168

と言っているが、夫婦愛と親子愛をもちだすまでもなく、たんに近代化の早さの違いではないだろうか。

 近代化とは雁行的に進むものだとすれば、アメリカと我が国に違いがあっても、何の不思議もない。
むしろ、筆者に問いたいのは、近代家族の崩壊後には、どんな家族が出現しており、それを何と呼ぶかである。    (2008.4.15)
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参考:
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フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991

ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001
オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992
石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002
梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001
山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999

謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト幻冬舎文庫、2002
プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983
田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999
佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995
アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989
カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995
シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001
シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000
アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991
曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003
アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002
バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991
編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005
エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 
高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992
正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004
ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006
ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006
菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000
ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997
ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001
ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006
松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003
ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985
謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960
山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999
ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001
赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996
佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996
ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969
田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004
ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000
酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005  
大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006
アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006
石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 
高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008
石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995
佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999
生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994
岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009
白倉敬彦「江戸の春画」洋泉社、2002
田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999
パット・カリフィア他「ポルノと検閲」青弓社、2002

匠雅音「性差を超えて」新泉社、1992

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