著者の略歴− 1941年東京生まれ。医学博士。慶應義塾大学医学奇卒業。同大助手、フランス政府給費留学生、国立療養所久里浜病院精神科医長、東京都精神医学総合研究所副参事研究員等を経て、1995年9月より家族機能研究所代表。日本子どもの虐待防止研究会理事。日本嗜癖行動学会理事長、学会誌「子どもの虐待とネグレクト」・「アディクションと家族」編集主幹。著書に、「家族依存症」「「家族」という名の孤独」「アダルト・チルドレンと家族」「「家族」はこわい」「封印された叫び〜心的外傷と記憶」など多数。最近の訳書に「父・娘近親姦」がある。連絡先:〒106−0045 東京都港区麻布十番2−14−6 イイダビル2F 家族機能研究所 TEL:03−5476−6041 http:www.iff.or.jp 貧しかった頃は、日々の食い扶持を稼ぐことに追われ、精神的な悩みなどは無視されてきた。 しかし、衣食足りると、精神の飢餓に悩むようになった。 豊かな社会には、豊かな社会なりの問題がある。 63歳の精神科医が、家族について考え続けている。 我が国では少子化を嘆きながら、子供の誕生より核家族を大切にしている。 対なる男女が作る核家族を正しいものとし、それ以外の男女関係を認めようとしない。 単親の存在を、徹底して否定しようとする。 筆者は対なる男女が作る核家族を、今後の家族像としては少数派と考えている。 本書の最後には、「シングル化社会」というタイトルで、非婚者の生活に賛辞を送っている。 63歳という年齢を考えれば、柔軟な思考である。
家庭内暴力が話題になる。 家庭の内と外とで、まったく違う倫理に従っている人間は少なくない。 他人からは信頼されている医者や人権派の弁護士が、家族に対して残酷な仕打ちをしている。 他人はその人間の外面しか知らないので、立派な人物・良い人と信頼する。 しかし、家庭では家族にまったく冷たい人がいる。 それでも暴力をふるう男性は、物事が明瞭になっているので、外からも理解しやすい。 暴力をふるわずに、精神的に家族を拒否する人間が、家族を破壊する行為は目に見えない。 往々にしてこうした男性は、家庭の外では立派な人物であるだけに、家族の方が非常識な人たちだ、と見られてしまう。 だから、家族の構成員の心を壊しても、誰からも非難されない。 家族を一種の共同体と見なし、社会が家族内に侵入することを否定してきたので、家族の内外で対応を変える人間が生まれてしまった。 内弁慶は子供だけのものではない。 外面と内面の乖離は、家族たちに深刻な問題を引き起こした。 筆者の家族機能研究所には、家族生活が上手くできない大人たちが、たくさん相談にやってくる。 筆者は家族問題の研究者だから、本書でも家族関係についての発言が多いが、少子化については傾注すべきものがある。 日本社会は少子化に悩み抜くことになるが、これを招いたのは私たち男である。男が舵取りを独占してきた政府と自治体である。敗戦直後の1948年、「狭い国土に膨張する人口」という当時の現実に怯えた政府が、闇の堕胎手術を「優生保護法」によって合法化し、その翌年には経済的理由によるものも認めた。その結果、80年代の前半まで、既婚女性の4割近くが妊娠中絶の経験者であったし、現在でも2割以上がそうである。日本の社会は女性の心と体を犠牲にして少子化に成功し、これからはその対応に悩むのだ。P104 女性の心と体を犠牲にして、経済的な繁栄を謳歌した社会。 そのとおりだろう。 そして、フェミニズムによって女性の中絶権が、理論的にも確立されてくるが、女性の自己決定権と胎児の生きる権利は、いまでも両立しがたい。 当サイトは、自己決定権として女性の中絶権を、全面的に支持する。 と同時に、筆者が次のように言うのにも、耳を傾けたいと思う。 (フランス社会では)人工流産を防止するための匿名出産の制度が設けられている。事情のある妊婦は匿名で出産し、新生児は親の名を秘されたままに子を望む親たちに託される。ここでは子どもが実親を知る権利を犠牲にして、健康な胎児が流される危険を防ごうとしている。親たちとは子どもを育てることの責任を負うものを言うのであって、子どもに血を与えたものを言うのではないという文化(人々の合意)がこの制度を支えている。 我々の文化はこの点でフランス人たちのそれと対極にある。子どもは血のつながる親たちのものであって、生みの親たちは子どもに関して生殺与奪の権を握るべきであり、他人がこれに介入することは極力排するという文化である。事情のある妊婦の子は流されるべきなのであって、これを出産に導いたり、まして他家に養子縁組させるなどのことがあれば厳しく処罰する。この文化に敢然と抵抗した菊田昇医師のようなものがいれば、断固逮捕し獄死させる。女たちに人工流産を強い、彼女らを犯罪(crimeの)ではない罪(sin)の意識の中に漂わせるのは、この文化である。P106 農業が中心の産業だった前近代では、子供は親たちの所有物であった。 それはフランスでも変わらない。 工業社会になって初めて、子供の人格が認識されたのである。 工業社会化が少し早かった西洋諸国では、早くから子供が発見されて、早くに子供の人権が確立したに過ぎない。 それでも児童虐待という行為が、犯罪と認識されるようになるまでに、西洋諸国でも100年近くかかっている。
「生きながら火に焼かれて」が語るとおり、前近代に生きるイスラムでは、親が子供=女性を殺すのも許されてしまう。 こうした中で、子供の人権をいうのは、荒野で叫ぶことに等しい。 女性の自立、そして子供の自立という順番でしか、人権は確立されない。 その意味では、女性の自立が不充分な我が国では、子供の人権がどんなものか認識されにくいだろう。 しかし、少子化という男性にとっても重大な問題に直面して、いまやっと我が国でも子供に関心が向き始めた。 そして、核家族の限界が見えてきた。 フランス人たちは家族の概念を目いっぱい拡大して家父長制的家族主義(私はこれを「健全家族神話」と呼んでいる)から離脱する方向へと進んでいる。 その結果何が生じたかと言えば、長年にわたってフランス社会を苦しめてきた少子・高齢化からの解放で、今やあの国の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子ども数の推定値)は1.9を超える勢いである。日本ではこれがついに1.3を切り、日本のリーダー役を任じている男たちは怯え始めている。私たちは今、「夫婦とその血を分けた子」からなる核家族こそ健全という健全家族神話から解放されることを迫られているのだと思う。P118 健全家族神話から「単家族」へと転じてこそ、より多くの人が幸せなれる。 にもかかわらず、我が国の論調は、断固として核家族を擁護している。 しかも、子供は未完成な人格とみなし、いまだに親の所有物と考えている。 大学フェミニズムが女性差別の原点を認識しないように、我が国の大人たちは現実を直視しない。 既存の核家族が機能不全になったから、少子化になったにもかかわらず、核家族を温存することを優先課題にしている。 核家族を温存した上でしか、少子化に対応しようとしない。 子供についても同様である。 20歳未満の者を子供と見なし、大人は自分たちの領域に、未成年者を入れようとはしない。 20歳を大人と子供の境とすることが、すでに破綻しているのに、それを見直そうとはしない。 現在の大人たちにとっては、核家族と親子関係の固定化には、特別に大きな利権があるようだ。 だから両者を手放すことはない。 しかし、核家族と親子関係を温存したままで、少子化を克服することは不可能である。 思春期の子というのは、実は幼体ではない。男児は11〜12歳になれば勃起も射精もしている。女児の12歳の大半は排卵を始めている。既に次の世代を作る能力を持った者たちを子どもと考えるからおかしなことになる。こんな性欲動の魂のような若い雄や雌たちを子ども扱いして、彼らが直面している衝動について何も説明しないから、ときどきおかしなことが起こる。P167 当サイトは、繁殖力を備えた人間を「成体」とよび、繁殖力がない人間は「幼体」と呼ぶ。 人間を生き物として見たとき、大人と子供の間に違いはないと考える。 しかし、大人は完成した生き物で、子供は未完成という意識がある。 大人と子供という言葉には、2つの意味が混入してしまっている。 繁殖力という生物次元の話と、社会性をもった年齢の多寡という違いが混同されている。 そこで男女問題にならって、性差に対応する区別、つまり社会性から見た人間を「大人」と「子供」と称し、性別に対応する区別、つまり生物として見た時には、「成体」と「幼体」と称することにする。 前者は年差で、後者は年別である。 すると、成体は精通もしくは生理がある年齢以上で、おおむね小学高学年から中学生位以上の年齢である。 それにたいして、「幼体」は精通や生理がまだない年齢以下である。 以上のような前提をとると、筆者の言うことは実によく判る。 未成年といえども、10代の半ば過ぎの子供は、すでに成体なのだ。 近代以前では、幼体から成体になれば、子供から大人になった。 つまり10代半ばの人間は、社会的には大人だったのである。 現場に鍛えられたせいか、筆者の目は実に柔軟である。 大人たちが家族の利権にしがみつき、現実を直視しないとき、我が国の現状はますます解決不能の方法へ向かっているように思える。 情報社会化を不可避とするなら、核家族にしがみつく限り、幸福な生活は来ない。 こうした思いは、当サイトも筆者と見解を共有する。 (2005.03.29)
参考: 斉藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001 大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003 ジョルジュ・ヴィガレロ「強姦の歴史」作品社、1999 R・ランガム他「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 斉藤学「男の勘ちがい」毎日新聞社、2004 ジェド・ダイアモンド「男の更年期」新潮社、2002 ジョージ・L・モッセ「男のイメージ」作品社、2005 北尾トロ「男の隠れ家を持ってみた」新潮文庫、2008 小林信彦「<後期高齢者>の生活と意見」文春文庫、2008 橋本治「これも男の生きる道」ちくま書房、2000 鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000 関川夏央「中年シングル生活」講談社、2001 福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書、2008 M・ポナール、M・シューマン「ペニスの文化史」作品社、2001 ヤコブ ラズ「ヤクザの文化人類学」岩波書店、1996 エリック・ゼムール「女になりたがる男たち」新潮新書、2008 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 蔦森 樹「男でもなく女でもなく」勁草書房、1993 小林敏明「父と子の思想」ちくま新書、2009
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