匠雅音の家族についてのブックレビュー   男でもなく女でもなく−新時代のアンドロジナスたちへ|蔦森樹

男でもなく女でもなく
新時代のアンドロジナスたちへ
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著者:蔦森樹(つたもり たつる)  朝日文庫 2001(1993)年

著者の略歴− 1960年北海道生まれ。法政大学経済学部第U経済学科卒。ルポライターとしてオートバイの戦後史や技術文化史を手掛けた後,86年頃よりフェミニズムの流れを受けてジェンダー(社会・文化的性別)の問題に取り組む。’90年に出版された新男性論『男だってきれいになりたい』で注目される。
 その後,執筆・講演等で幅広く活躍,常に個人の存在価値から発想していくその姿勢が多くの読者の共感を得ている。男性論に意味があるとすれは,新しい男らしさの発見でも男の復権でもなく,自らの手で内側に潜む男権主義の存在を,闘わずして消滅させることである。目的があるとしたら,男のためにでなく,これ以上女性を消耗させないために,第三者ではなく私自身のためにというのが持論である。
 著書に『進駐軍モーターサイクルクラブ』(山海堂),『Wlファイル/Wlの技術文化史』(山海堂),『男だってきれいになりたい』(マガジンハウス),『そして,ぼくは,おとこになった』(マガジソハウス)がある。編著書として『現代のエスプリNo.277 トランス・ジェンダー現象』(至文堂)。近刊予定の著書に『21世紀恋愛読本』(学陽書房),近刊予定の訳書にジョン・ストルテンバーグのラジカルな男性論『男であることを拒否する』(勁草書房)がある。

 性差を越えようとした筆者が、33歳で書いた自叙伝である。
バイク乗りだった筆者は、とつぜんに女性になりたい欲望に襲われる。
身長が180センチ体重も70数キロあり、髭も濃かったらしいが、脱毛して女性の洋服を着始める。
それが20歳の頃であった。
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 なぜ、女性を装うことはじめたのか。
筆者は結局その理由を明らかにしない。
おそらくできないのだろう。
自己認識は、他者を鏡としてなされるから、社会が男女で構成され男女の価値観があれば、それにならって自己形成がなされる。
そのため、自己自身に理由を問うても、わからないだろう。 
しかし、理由を突きつめないことは、論理の展開に脆弱性を残している。

 筆者は、とにかく男性的であることを嫌い、女性に憧れて女性を装うようになっていく。
男性を拒否するといった理性的なものではなく、嫌うといった感情的な衝動だったようだ。
最初は、女装だけだったが、やがてホステスになった。
とうとう学生時代からの配偶者が逃げていく。
 
 筆者は自分の好みを貫徹した結果、配偶者の好みを裏切ってしまった。
配偶者は筆者に、男性性を纏っていて欲しかったにもかかわらず、筆者が女性的な生活に憧れて、女性を装うことに耐えられなくなったのだ。
筆者は自分の、男性の身体を肯定できずに、女性を羨望し続ける。
それでいながら、ディアドラ・N・マクロスキーのように、「性転換」を望んでいるわけではない。
あくまで男性器を持ち続けている。

 (両親が結婚を迫ることに対する)このような私の怒りのバターンは、小学生の時から続く両親との激しい軋轢で形作られ補強され続けたものだ。実際、大学入学と同時に職についてからは「誰のおかげで飯を食えると思っているんだ」と父親に言われ続けた″事実″から解放され、私は自分らしさを取り戻した生活に心安らいでいた。そして常に私のそのままの姿を否定的な眼差しで判断していた両親を、もはや自分とは関係のない人たちとして、私は力づくでその影を自分の意識から排除していた。同じ東京に住んではいても、私は年に一度も両親と顔を会わすことはない。仮に会ったとしても、たった10分もしないうちにいがみあいが始まった。その不愉快さを味わえば味わうほど、私は両親との接点を断ち切ろうと思った。P54

 ボクも同じような体験だったから、筆者に共感したい。
しかし、大学フェミニズムには好評だったという本書からは、筆者の心情はどうも読みきれないのだ。
フェミニズムの誕生は、事実と観念の分離が許されるようになったからであり、それは機械言語の登場と平行現象なのだ。
つまり、性別に基づいた性差が、じつは文化的なものだと暴露されたとき、男性が女性を装うことも解禁されていたのだ。

 筆者はジェンダーの鎖から解き放たれるというが、フェミニズムは性差と性別を切断したのであり、その結果、ジェンダーの鎖から解きはなされたに過ぎない。
そこでは、筆者のように女性を装う者がでるであろうし、反対に極め付きのマッチョを演じる者がでることもある。
そして、ゲイの登場は、性差と性別が切断されたからである。
異性指向と同性指向は、同じことの裏表なのだ。
 
 今まで男性が、ステレオタイプ化した男性性を強制されていたというが、性差と性別は切断されたから、より一層のマッチョを演じても良くなったのだ。
たとえば、髭を生やしたり、ボディービルをやっても、それは女装と同じ意味になったのだ。
筆者の女性化は、男女の二項対立的な指向ではないというが、むしろ工業社会の標準仕様的な拘束が、裏返っているだけだと感じる。

 筆者は「男でも女でもない性」が描くような半陰陽ではないから、通常のセックスができる。
とある女性の専業主夫をやっているとき、筆者は女性とセックスをする。
そのセックスを男性である筆者が抱かれる状態という。
そして、自分の感覚を次のように描写する。

 再び固く眼を閉じた。耐えきれずに声をあげた。身体が張りつめ、突っ張ることも止められなかった。私を包みこんでいた彼女が絞りこむように力を入れたとき、身体が弓のようにひきつれて射精した。目の前が真っ白になり、突然突き落とされたように感じてわけがわからなくなった。そして自分を押えきれずに声をあげて泣いた。私は、男であり女であり、男でもなく女でもない.そして私は私だったのだ。P200
 
 男性が受け身的にセックスをすれば、筆者のように感じもするだろう。
しかし、男性器が勃起し、女性器に挿入されていることには変わりない。
男性が能動的でなければならないとは決まっていないし、受動的な姿勢を好む男性がいても不思議ではない。
本書は、筆者の自己確立の過程と読めば、そうかと納得するが、よりマッチョになる自由もあるのだから、一つの特例として読むに過ぎない。
筆者は性別と性差が切断されたことの意味がわかっていないのだろう。

 性差規範からの逸脱は、どちら側へも自由なのだ。
筆者は否定するが、男性から女性への転身は、男性性と女性性を固定したうえで、入れ替わろうとしているだけだ。
それはむしろ、男女の性差を固定する方向だろう。
東郷健さんの「常識を越えて」のほうが、はうかに潔い。
現在は、琉球大学と立教大学の講師をしている筆者だが、本書からは女性の大学フェミニズムと同様の危うさを感じる。
  (2009.6.18)

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参考:
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
目黒依子「女役割 性支配の分析」垣内出版、1980
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006
礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987
アラン・ブレイ「同性愛の社会史 イギリス・ルネッサンス」彩流社、1993
プラトン「饗宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002
東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991

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