匠雅音の家族についてのブックレビュー     <子供>の誕生|フィリップ・アリエス

<子供>の誕生
 アンシャン・レジーム期の子供と家族生活
お奨度:

著者:フィリップ・アリエス−−みすず書房、1980年出版、¥5、200−

著者の略歴−1914年ロワール河畔のブロワで、カトリックで王党派的な家庭に生まれる。ソルボンヌで歴史学を学び、アクション・フランセーズで活躍したこともあったが、1941〜42年占領下のパリの国立図書館でマルク・ブロックやリュシアン・フェーブルの著作や「アナル」誌を読む。家庭的な事情から大学の教職には就かず、熱帯農業にかんする調査機関で働くかたわら歴史研究を行った。「フランス諸住民の歴史」1948、「死を前にした人間」1977、などユニークな歴史研究を発表し、新しい歴史学の旗手として脚光をあびる。1979年に社会科学高等研究院の研究主任に迎えられる。自伝「日曜歴史家」1980、1984年2月8日逝去 「教育の誕生」藤原書店、1992
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 人間は誰でも赤ちゃんとして生まれ、子供をへて大人へと成人する。
子供がいるのは、当たり前のことのように見えるが、子供の意味は時代によって違うのだ、と本書は画期的な主張した。
今では、子供に働くことを期待してはいないし、子供は大人と違った存在だとみなす。

 しかし、子供が子供としてみられるようになったのは、本書に従えば近代の産物なのだ。
本書が言う子供とは、学生と置き換えた方が理解しやすいかも知れないが、突きつめてみるとやはり子供と言わざるを得ない。
 
 「かつて子供は<小さな大人>として認知され、家族をこえて濃密な共同の場に属していた。 そこは、生命感と多様性にみちた場であり、ともに遊び、働き、学ぶ<熱い環境>であった。だが、 変化は兆していた。例えば、徒弟修業から学校化への進化は、子供への特別の配慮と、隔離へ の強い関心をもたらしたように」裏表紙カバーから

 言われてみれば、当然である。
学校がない時代には、子供は近所で仲間と遊んだ。
そして、農作業が忙しくなると、子供たちも仕事にかり出された。
農作業は厳しい肉体労働でもあるが、非力な人間にもできる仕事はいくらでもある。
小さな子供だからといって、農繁期には遊ばせてはおかなかった。
だから、子供から大人になるに従って、何時とはなしに農業労働を身につけたのだ。

 農作業は学校などで教えられたものでもない。
大人たちに混じって半ば遊びながら、仕事をしているうちに覚えたのである。
そこには年齢による区切りはない。
大人と子供の境は区別の付けようがないくらいに、連続したものだった。

 職人にあっても事情は同じである。
自分の身の回りのことができる年齢、つまり12〜3歳になると徒弟修業にでて、小さな職人として働き始めたのである。
小僧といわれる時代には、たいした仕事もできず半人前であるが、働き手であることには違いなく、大人との質的な違いはなかった。

 大人に混じって働く子供たちは、未成年のうちから煙草をおぼえ、女郎買いにも引っぱり出された。
今日の中学生や高校生は、精通や生理もあって肉体的には成人だが、学生という地位におかれ人間的には未成年として扱われる。
しかし、学校がない時代には、学生という存在はなかった。
子供は小さな大人だったのである。

 時代や社会が違うと、同じ年齢の人間にたいして異なった対応をする。
当然のことだが、今という時代に生きる人間には、その違いが見えない。
また見えたからといっても、その社会が決めた対応しかとりようがない。
例えば、中学生に喫煙を認めることはできないし、セックスを公認することもできない。

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 通常の社会生活を営む人間は、良き市民でなければならない。
だから、市民社会の常識に従わざるを得ないのだ。
しかし、社会が人間の生き方を決めるのだとすると、人間の生理的な構造も社会が決めているのだろうか。
そんなことはない。
生理的なメカニズムは、生物として決められたものである。
年齢という時間の経過によって変化するものである。
事実と社会観は違うものである。

 本書は、中世から近代には入るまでの、4世紀にわたる墓碑銘や日記、書簡などの記録を綿密に調べた。
そうしたなかから、子供の位置づけがどのように変わってきたかを、説得力をもって展開した。
わが国でも池波正太郎など昔を知る人間は、年齢で若者を輪切りにすることを戒めている。

 彼は年齢にかかわらず働いているかどうかで、若い人間を見ようとしていた。
前近代の人間観を理解する人たちには、アリエスの子供観は不思議でも何でもない。
子供が小さな大人であることは、至極当然であった。
ただ、改めてそんなことを言う必要性を感じなかったのだ。

 私の家族論は、本書から大きな影響を受けている。
つまり、家族の構造に本質なるものを求めようとはせず、家族も社会的に規定されるものだ、という視点を与えてくれたのは本書である。
マードックなどの定説では、核家族が家族の中心だと言われてきた。
が、本書の影響もあって核家族を家族の源基であるとは考えなくなった。

 事実としての生物的な男女関係と、社会性としての家族を次元の違うものとしてとらえたのである。
人間という種が保存されるメカニズムは、対なる男女の営みによって支えられる。
が、人間を育てる仕組みは社会性の反映だと見なした。
そこから「核家族から単家族へ」という流れが導きだされたのである。

 上下2段組で400ページという大部だが、家族を考える上では必読の本である。

補足
 とある方から、「アリエスの『子供の誕生』は反論と批判が多く、既に学問的には破産しています」という指摘を受けたが、本書は当方の実感とも一致する。
誰が本書に引導を渡したか判らないが、当サイトは今でも本書を熱く肯定する。
自分が体験してきたも職人たちの世界には、子供はいなかった。
子供と大人がいたのではなく、いたのは初心者と経験者だった。
そのうえ学校の誕生は、近代を画する大きな事件である。
学校が「子供」を誕生させたと考えても、本書は充分にも通用する。
(2005.11.25)
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参考:
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995  
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年


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