著者の略歴−ニューヨーク大学教授。メディア・エコロジー専攻。言語、教育、メディアについて大学での教育に携わるかたわら、アメリカの各地で講演会をひらいている。邦訳に「技術vs人間」新樹社 1962年にフィリップ・アリエスによって、「子供の誕生」が書かれた。 と思ったら、20年後の1982年に書かれた本書は、子供が消滅しつつあるという。 現実はいつも緑で、理論は灰色である。 しかし、人間は言葉=理論がないと、現実を認識できない。 子供という言葉がないと、子供という存在を認識できない。
ところで、乳飲み子は自分の世話ができない。 小さな人間は、誰かが面倒を見ないと成長できない。 自分の意志を伝えられるようになるのは、何歳くらいからだろうか。 自分の始末ができるようになるのは、何歳くらいからだろうか。 おそらく5〜6歳くらいからだろう。 6歳を基準とすれば、6歳未満を小人と呼ぶ。 中世までは、7歳以上は小さな大人であった、というのがアリエスの主張だった。 本書もそれを踏襲している。 つまり7〜20歳くらいの人間は、いつの時代にも存在したが、その時代の人間を呼ぶ特別な名称は存在しなかった。 子供とは、親が生んだ生き物という意味で、親子関係を表す言葉だった。 今日言うような未成年者という子供なる概念は存在しなかった、というのは今や定説になった。 7〜16歳くらいの男性をさす言葉は、フランス語、ドイツ語また英語にもなかった、と筆者はいう。 読み書き能力が欠けていること、教育という観念がないこと、羞恥心がないこと−これらが、中世に子ども期という観念が存在しなかった理由である。この話に生活のきびしさだけでなく、とくに子どもたちの死亡率が高かったことをふくめなければならないことはもちろんである。子どもたちの生存がむずかしいこともあって、大人は、子どもたちにたいして、私たちがふつう思っているような感情的なかかわりあいをもたなかったし、もつことができなかった。二、三人生き残ればいいと思って多くの子どもをつくるのが、一般の考えかただつた。あきらかにこうした理由で、人々は、子どもたちにあまり愛着をもつことをゆるされなかったのだろう。P35 筆者が最も強調するのは、子供期が誕生した理由は、活版印刷の発明によって、識字能力が大衆化したことだ。 つまり、識字能力を身につけるのに、時間がかかるからだという。 支配者だけが文字を知っていた時代には、統治能力や職人の能力と同様に、文字は特殊な能力の一つだった。 しかし、印刷術の普及は、識字能力を大衆化させ、思考の抽象的領域を創造し、肉体を頭脳の下に置くことになった。 識字能力と演算能力の養成が、近代的学校の最大目的だったから、学校の成立が子供期を確立したと言って良い。 学校が近代的な人間をつくりだし、同時に近代人の疎外を生みだしたのだ。 面白いことにフランスで、識字能力の向上に反対したのは、文化と宗教のプロテストを恐れたカソリックの一派であるという。 いずれにせよ、子供期なる概念が、近代の代物であるのは、間違いない。 子供なる概念の認知は、子供なる概念が消滅に向かったから、可能になったと筆者はいう。 それが常識である時代には、誰もそれを知ろうとはしない。 しかし、それがなくなり始めると、それを知ることが可能になり、また見極めたくなる。 子供期も同様だと、筆者はいう。私もこれに賛同する。 情報社会化は、男女差別の解消と同時に、年齢秩序を解体させたのだとは、常々言ってきたことである。 文字に情報がのっていた時代には、識字力がないと情報を会得できない。 そのため、識字力のあるなしが、人間の成熟度を左右する。 識字力の体得には、時間がかかるから、子供は大人にかなわなかった。 しかし、視覚的な媒体が情報を伝えるようになると、誰でも情報を理解できるようになる。
テレビが普及した結果、情報の理解において、年齢のもつ意味がなくなった。 ここで大人と子供の境が、意味を失いはじめた、と筆者はいう。 中世では子供なる概念がなかったから、性の世界もまったく子供たちに開かれており、10代でセックスを体験した。 それはわが国の例を見ても納得できる話だ。 しかし近代にはいると、大人と子供の区分けが生じ、性の世界は子供から遠ざけられた。 未成年者はセックスをしない者と見なされはじめた。 子供なる概念が、性を含んでいなくても、現実の10代の人間は性的存在である。 子供なる観念が子供に性を禁止しても、10代の肉体は性をもっている。 男性の性欲に限ってみれば、高校生くらいがもっとも激しい時代かも知れない。 テレビの普及は、性の世界でも大人と子供の障壁を取り払った。 コマーシャルには、大人と同様の子供が登場するし、スポーツの世界では子供が大人以上の成績を残す。 妊娠能力がある女性は、セックスをすれば妊娠する。 妊娠するか否かは、年齢によるのではない。 10代の妊娠の増加である。1975年には、10代の出産は、仝出産数の19パーセント。1966年の数字よりも2パーセントの増加である。しかし、15歳から17歳の子どもたちの出産にしぼれば、これが最近出産率が高まった唯一の年齢層であり、21.7パーセントの増加である。 出生率が下がるなか、10代の女性だけが出生率を上げている。 わが国にあっても、同様の傾向が見られる。 中絶の総数は減っているが、10代の中絶は増えている。 もちろん、性病の感染も10代では増加している。 性体験を持つ子供たちが増えることが意味するのは、子供も一人前の人格だと主張していることだろう。 女性が自立したように、子供もここで自立する。 男女が等価であるのと同様に、大人と子供は等価である。 情報社会化の進展は、ますます子供期を消失させる。 それは不可避であると筆者はいうが、それは歓迎すべき事態ではないという。 新たな社会の基準がないなかで、既存の基準が崩壊することは、無秩序な社会になることである。 無秩序は自我の確立していない子供には、とりわけ厳しい状況をもたらす。 筆者は新たな社会の基準ができるまで、何とかして子供期を守り、家族を大切にしようと、現状維持の結論をみちびいている。 筆者の認識には同意するが、崩壊や消滅が不可避であるものを、くい止めるのは至難の業であると思う。 時代の流れを読むことができれば、新たな社会の基準を創ることこそ、焦眉の急ではないだろうか。 私は筆者と認識を同じくするが、結論はまったく正反対である。 ところで、子供という概念が消失すると、母性信仰が強いわが国のフェミニズムは、何を運動の手がかりにするのだろうか。 (2002.8.9)
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