匠雅音の家族についてのブックレビュー    引きこもる若者たち|塩倉 裕

引きこもる若者たち お奨度:

著者:塩倉 裕(しおくら ゆたか)  朝日文庫、2002年 ¥600−

著者の略歴−1966年東京生まれ。一橋学社会学部卒。89年朝日新聞社に入社。旭川、札幌での勤務を経て、94年から学芸部記者に。教育面、文化面(論壇)を担当。著書に、本書の続編にあたる「引きこもり」ビレッジセンター出版局、がある。
 引きこもりという言葉が、聞かれるようになって久しい。
女性や身障者の台頭を促したように、情報社会化は良くも悪くも、新たな人間像を生みだす。
引きこもりもその一種だろう。
ところで、すでに引きこもってしまったら、簡単な対処療法はなさそうである。
本人は自信を持てず、人間関係に苦しみ、引きこもりから出ようとしても、なかなか脱出できない。
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 しかし、引きこもりにしない予防法なら、簡単である。
子供を信じ、無条件に子供のあるがままを、抱くことである。
無条件抱擁の子育ては、かつてなら当たり前だった。
農耕社会という封建社会では、生まれが人生を決定する。
百姓に生まれたら百姓になり、職人の家に生まれたら職人になる。
だから、女性や身障者は差別されたし、人生に迷いが生じる余地はなかった。

 身分制がほどけ近代という時代が始まると、百姓の家に生まれても、会社員や役人になれるようになった。
平等な人間観が生まれ、個人が解放され始めた。
自分の人生を選択できるようになった。
と同時に親は、子供に残す土地をもっていなかった。
大多数の近代人は、受け継がせる土地=生産手段をもっていない。
家は生産組織ではなくなっていた。
そこで親たちは、子供に教育を残そうとした。

 教育を残すとは、子供を叱咤激励し、工業社会の鋳型にはめ込むことだった。
子供の独自性はつみ取られた。
子供の可能性やありのままを受け入れず、勉強ができることを強制した。
勉強ができることが、将来のより良き人生を保証すると思えたから、親たちは子供により上の成績を求めた。
たとえば、本書に次のような話がある。
 
 「学校の成績、ずっと悪かったんです。母親は勉強にうるさくて、社会科で80点を取れても、ほかが40点だと、『なに、この点数はっ!』って怒られたり……。悪い方ばかり、言われてたような気がします。兄は僕より勉強ができたので、よけいに……」P47

 そして、地元の公立中学ではなく、入学試験のある私立に入れようと、親は彼に家庭教師をつけた。
親はなかなか誉めない。
つねに弱点を指摘し、その克服を求める。
私も同じように育てられたので、この人の例は自分のことを見ているようだ。
オール5に近い成績でも、体育や音楽に3や4があると、親はそれを指摘する。
そして、1教科でも成績が下がれば、ソフトにまたは厳しく叱る。
決して悪気があるのではない。
子供への叱咤激励が、親の恐ろしい愛情表現である。

 親は家庭教師の費用も、塾の費用も、学業に良さそうなものは、何でも支払う。
誉めはしない親だが、やや恩着せがましく、お金だけはきっちりと支払う。
親がこれだけお金をかけているのだから、この子は幸せだろうと、廻りからも見られる。
もちろん暴力をもって子供を虐待するのではない。
親も必死に働いてもいるからから、むしろ立派な親と見なされる。
しかし、子供の心を大切にするのではなく、親の願望を子供に押しつけている。
そして、親は自分の教育熱に酔っているのだ。
その反動がくるのは当然である。

 こうした親の教育熱は、今に始まったことではない。
1960年代に農業の就労人口が、はじめて50%を切った。
高度経済成長という、本格的な工業社会の到来とともに、教育熱はすぐに始まっていたに違いない。
教育熱の対象とされた嚆矢は、なんといっても団塊の世代である。
しかし団塊の世代は引きこもらなかった。それはおそらく学生運動があったからだろう。

 大学へ入った若者は、親に反抗する理論的な武器を、学生運動のなかで手に入れた。
大学に入らなかった若者は、おとなしく社会の片隅で生きた。
学生運動との距離が、どちらにせよ成長の証明だった。
よい子をもった親は、過激な学生運動に巻き込まれなくて良かった、と思ったに違いない。
しかし、過激な学生運動こそ、当時の若者の思想を鍛えたのである。

 国家の意思によって、機動隊という暴力が、学生たちを屈服させた。
国家は若者の独自性を、みずから刈り取った。
価値を相対化する運動は、完全に消滅させられた。
フェミニズムですら体制内化して、運動の牙を抜き取られてしまった。
いまや有名な女性フェミニストたちは、一般の働く女性たちを抑圧する存在である。
頭脳労働の優位する情報社会化が、女性や身障者の台頭を将来したにもかかわらず、
その結果がコミュニケーションの断絶である。
独自性を生きる場が、どこにもない。

 親は未だに、叱咤激励の教育をし、親の願望を子供に押しつけている。
これでは子供が引きこもるはずである。
今は引きこもりの問題児でも、小さな頃はみんな良い子だった。
いや良い子を演じさせられてきた。
それが思春期になって、自分を取りかえそうとして、引きこもっているに過ぎない。
いまや子供がいることは、親の癒しである。
親の愛は山よりも高く、海よりも深いのではない。
ましてや親の恩が尊いではなく、子供の愛は山よりも高く、海よりも深いのだ。
子供がいること自体に、親は感謝しなければならない。

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 子供が赤ちゃんだった時代、笑顔にどれだけ心が和んだか。
親の元へ走り寄ってくる無心な赤ちゃんに、親は無上の幸せを感じさせてもらったではないか。
子供を誉めよう、どんな子供だって、誉められることが好きだ。
フェミニズムを唱える女性たちだって、そのじつは誉めてもらいたいのだ。
豊かな社会では、叱咤激励する必要はない。
子供を丸のまま包み込み、精いっぱい誉めよう。

 かつて私は従業員から、誉めてくれないと言われたことがある。
そのときには、給料を支払ったうえに、なお誉めなければならないのか、と驚いた経験がある。
しかし、世代が違っていた。
私たち団塊の世代は、誉められた経験がない。
誉められなくても、必死で自分の領分を作ってきた最後の世代である。
誉められなかったから、情報社会の誉める人育てができなかったのだ。
いまや子育ても、従業員教育も同じである。

 農耕時代には、生きるための手段は、自分からすすんで身につけた。
それが可能だったのは、職人的な繰り返しの技術を、体得すれば良かったからだ。
だから当時は、職業教育など存在せず、見て覚えるもの、技術は盗むものだった。
しかし、創造性を涵養する今の社員教育は、子育てと同じように、独創性ややる気を育てるものだ。
独創性ややる気は、外から注入することはできない。
 
 人々を家族や地域といった「関係」から切り離して孤立させたうえで、それぞれの周りを膨大な商品で埋め尽くしていく−。この産業社会は、私たちをそうした方向に導きつつあるのではないだろうか。産業社会が私たちに送ってきているのは、「一人になっても大丈夫だよ」と誘うシグナルであるようだ。その裏にはおそらく、「商品の売り込み先を一つでも増やしたい」という、あくなき企業の本性がある。P240

 誤解してはいけない。
人々は家族や地域といった「関係」から切り離され、孤立できたから、
身分制社会が崩壊したのだし、女性や身障者の台頭があった。
あくなき企業の本性が、女性や障害者を解放したのだ。
身障者の補助具を提供するのも、利益を追求するあくなき企業である。
肉体労働から頭脳労働への転換があったからこそ、
個人はより大きな自由を手にできたのだし、豊かな社会をつくれたのである。
産湯と一緒に、赤ん坊を捨ててはいけない。

 引きこもりや女性の台頭は、豊かな社会でだけ起きる現象であり、途上国では想像もされない。
もちろん前近代へと戻れなどというのではない。
過去を懐古しても意味はない。
本質が軽く透明になって雲散霧消し、関係だけが意味をもつ社会の到来は待ったなしである。
本質よりも関係が有意な社会が、関係不適応者を生みだすのは不可避である。
だから、個人化がより進むなかで、どうしたら幸せが実現できるか、と考えるのだ。

 それは子供を大人と同じものとしてみる視線だろう。
女性が男性から下に見られることに異議を唱えたように、子供たちは人間としての平等を指向している。
女性たちが良き主婦をやめた時、自分勝手で無責任だといって、社会は女性たちを非難した。
個人的な反乱が、新たな社会を切りひらくのだ。
子供も同様である。
子供たちの異議申し立てが、登校拒否であり、引きこもりである。

 差しだされるべき解答は、子供教育の見直しではない。
親教育の見直しである。
子供への家計の公開だろうし、単家族化である。
そして、学校の解体と、親以外の大人との関係をむすぶ場の設定であろう。
それは喫茶店やオタクな店かも知れないし、コンビニやクリーニング屋、または本屋や自転車屋かもしれない。
そして、公民館や児童館かも知れない。
引きこもりや登校拒否は、女性や身障者の台頭と、まったく同質の問題である。
(2002.8.9)
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参考:
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