匠雅音の家族についてのブックレビュー    家族の痕跡−いちばん最後に残るもの|斉藤環

家族の痕跡 
いちばん最後に残るもの
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著者:斉藤環(さいとう たまき) 筑摩書房、2006年  ¥1500−

 著者の略歴−1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。現職は、爽風合佐々木病院診療部長。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙活動。漫画・映画等のサブカルチャー愛好家としても知られる。著書に『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『若者のすべて』(PHPエディターズ・グループ)、『ひきこもり文化論』(紀伊国屋書店)、『博士の奇妙な思春期』(日本評論社)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)、『文学の徽候』(文芸春秋)、『「負けた」教の信者たち』(中公新書ラクレ)等多数。

 人間は男女の間に生まれ、その男女は多くが家族を営んでいる以上、人間の性格は家族に大きな影響を受ける。
そのため精神科医もまた、家族に興味を感じるのは当然だろう。
副業にものを書く精神科医は多い。筆者もその一人である。
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 悩みのない人間は精神科医など不要である。
だから、精神科医に持ち込まれる事件は、全部が全部といっていいほど全部が、問題を抱えた人間のものだろう。
様々な問題があるに違いない。精神科医の多くは保守的なものだが、本書の第一章は「母親は『諸悪の根元』である」というのだから、驚く。

 精神分析自体が近代になって誕生したものであるせいか、筆者の視線は近代以降に限定されているように感じる。
にもかかわらず、筆者は核家族を普遍的なものと考えたいようだ。
たしかに子供の誕生は、1対の男女間にしかありえないから、核家族は普遍的であると考えたいのも理解できる。
そして、1対の男女と子供を、家族のあるべき姿と見なしたいのはよくわかる。
 マードックを誤解して、多くの人は核家族を家族の原型と考えやすい。
筆者は次のようにいう。

 家族=エディプス三角という発想、すなわち、両親と子どもからなる核家族の形態を家族の最小単位と考え、あらゆる家族形態をその発展型と考えること。この発想はいっけん乱暴なようでいて、実は案外根強いのではないだろうか。P104

 フロイトを信奉する筆者は、エディプス・コンプレックス理論で、人間を理解しようとする。
そのため、人間は社会性を失って、個人的なものとなっている。
身近な人間の変化には目が向くが、社会という領域が与える影響には関心が薄いようだ。
人間は男女間から生まれるから、核家族が自然かというと、家族の形態は社会的に決定されたものである。
核家族が普遍ではない。

 農業が主な産業だった時代には、大勢の人間が一つ屋根の下に暮らして、大家族を形成していた。
筆者にいわせれば、大家族の中でも核となるのは、1対の男女とその子供だということになろう。
が、核となる2人と子供を家族と呼ぶか、全体の人々を家族と呼ぶかでは、かなり違った物語が生まれてくる。

 筆者は個人レベルの人間関係においては、時代の変遷を充分に取り入れて、人間は変化するものだという。
しかし、「世間」という言葉をもちだすとき、突然に保守的になってしまう。

 その家族が男子を含む複数の子どもに恵まれ、望ましくは長男が家業を継いで、働き者で繁殖力の旺盛な嫁を要り、かくして「イエ」が安泰のまま次代に受け継がれていくこと。このような家族の状態こそが、非難や嫉妬を受けることのない、もっとも世間的に透明な家族なのである。P127

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 精神科医までもが、上記のような家族をあるべき理念型と考えるから、それからの逸脱が大きな圧力となってしまうのではないか。
個別個人が直面するのは、社会ではなく世間かもしれない。
しかし、世間といえども産業構造から大きな影響を受けており、だから核家族が分解を始めたのだろう。

 子供を誕生させる生理的なメカニズムを、核家族といってしまえば、家族の原型は核家族ということになろう。
しかし、家族は社会的に規定されるものでもある。
同居している祖父母や叔父叔母を、家族と見なしていた時代は、そんなに昔ではない。
筆者の論で問題なのは、個人と世間(=社会?)を直結的につないでしまい、両者の間に位相の違いを認めないことだ。

 問題の多発する現代人を見続けてきた筆者は、人間が社会の動きとともに変化するものであることを認めながら、なぜか家族に関しては旧来の設定に戻ってしまう。
このあたりが個人的な視線でしか見ない限界なのであろうか。
現存する基準からずれた人間を、現存の基準に戻そうとするのが、精神治療だとすれば、精神分析とはもともと保守的なものなのだろう。

 私は「家族」について、「諸悪の根源ではあるが、ほかのいかなる人間関係よりもマシな形態」として理解している。人間が生存していくうえで、あるいは子どもを養育していくうえで、あるいは相互扶助し合う大義名分として、これほど機能的で一般性が高い形態はほかにない。P216

ここまでは賛成できる。しかし、これに続く文章には疑問が生じてしまう。

 とりわけ私の専門に近いところで言えば、子どもの成育におけるエディプス・コンプレックスの重要性、すなわち核家族の重要性は、どれほど強調してもしたりないほどだ。P217

と言われてしまうと、「母親は『諸悪の根元』である」と始まったはずなのに、と戸惑うのだ。
その意味では、家族のあり方に戸惑っているのは、あんがい精神分析医なのかもしれない。
 
 筆者の論からは、専業主婦を肯定する回路が生まれないはずである。
しかし、個人を見る職業がさせるのか、労働は義務ではないと言いつつ、勤勉に働くことは有害だと言って、働かずに済む専業主婦を肯定している。

 人間の人格を作るのはいったい何なのだろうか。
おそらくそれは労働しかないだろう。
筆者が核家族を、諸悪の根源ではあるが、ほかのいかなる人間関係よりもマシな形態という以上に、労働は諸悪の根元かも知れないが、いかなる人間形成よりもましだろう。
労働をしない専業主婦に、子育てをまかせて良いのだろうか。

 生き物としての人間を育てるには、男女の対が好都合かも知れないが、社会的な生き物としての人間を育てるには、必ずしも対の男女を不可欠とはしない。
男性1人でも、女性1人でも、もちろん複数の男性たちや女性たちでも、充分に子育てはできる。
必要なのは、その人間が社会的な生き物である=社会的な労働を担っている存在であることだけだ。
働かずに済む専業主婦の存在が、ひきこもりやニートたちを生み出す温床ではないか。 
(2006.9.1)
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参考:
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塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
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