匠雅音の家族についてのブックレビュー    性家族の誕生−セクシュアリティの近代|川村邦光

性家族の誕生
  セクシュアリティの近代
お奨度:

著者:川村邦光(かわむら くにみつ)  ちくま学芸文庫、2004年  ¥1100

 著者の略歴−1950年福島県生まれ。東北大学文学部卒。天理大学教授を経て、97年から大阪大学教授。このごろでは、近代日本のセクシュアリティ観の変化を探っている。著書に『巫女の民俗学』、『憑依の視座』、『幻視する近代空間』(ともに青弓社)、『オトメの祈り』、『オトメの行方』(紀伊国屋書店)、『地獄めぐり』(ちくま新書)、『<民俗の知>の系譜』(昭和堂)など。
 性と家族をめぐる話だが、どうして本書のような極端な誤解が生じるのだろうか。
愚かとしか言いようがない。
フェミニズム系の著作は、糊とハサミで作ったようなものが多く、どれを読んでも同じ感じがする。
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 日本人のセクシュアリティは、明治以降、外国の影響を受けて大きく変貌したという。
影響を受けたのは確かだろうが、むしろ性は影響が少ない分野ではないだろうか。
日本人の性を謳歌する姿勢は、あまり変わっていないように感じる。
本書は江戸時代を軽く見渡した後、太平洋戦争への翼賛構造のなかに、性が抑圧されたと述べていく。

 本書もそうだが、学者の書いたものの多くは、自分の性交体験とはまったく無縁のところで書かれている。
例えば、田中優子氏など、「張形−江戸をんなの性」という好主題を見つけながら、張形を自分で使っていない。
だから文章が表面的で、時代にある先入観でのみ記述してしまう。
本書も同じ傾向があり、日本人のセクシュアリティを扱いながら、自分はセックスとはまったく無縁であるかのようだ。
そのため、通俗的な展開しか記述されず、本書を読んでも新たな発見は何もない。

 フーコーを引用しながら、性のディスクールなる言葉を多用している。
安易に外来語にたよる姿勢では、現実に迫ることはできない。
外国から影響を受けたのは、日本人の性意識よりも、筆者の思考回路ではないだろうか。
筆者は書かれた文献だけから、論を組み立てようとするので、現実に思考が届かない。
農業という産業が、人々にどのような性意識をもたせたかをまったく考えない思考は、浮き草のように時代に流されるだけである。

 19世紀末、文明開化期に、西洋のセクソロジー(性科学)や産婦人科医学の書物がどしどし翻訳されて導入された。男女の関係において、性的な事象=セクシユアリティに関する、これまでにない新しい知識と身体の領域が切り開かれたのである。端的にいえば、男女の性器、それに局限される欲望にまつわる知識によって、文化的に構成された人間が生みだされたことを意味している。これまでの色や色情の領域は男女の性器に局限されない遊びであり、その知識は遊びを楽しむためのものであった。P46

 翻訳された文章と、江戸時代の著作を比べるのは適切ではない。
両者は同じ出版物ではあるが、翻訳された文章が、時の支配者たちの支配意志を反映したものだったとしても、江戸の書物は必ずしも同じ位相にはない。
今日、ちまたに溢れる性案内書を、われわれ庶民はどのように受け止めているだろうか。
なかば娯楽としても読んでいるだろう。

 江戸の庶民も、今日の庶民も、性案内書の受け止め方において、大きな違いはないだろう。
しかし、文明開花期に翻訳された文章は、まったく違った受け止め方をされたはずである。
まず読者層が完璧に違う。
そして、翻訳書は学術論文と同様に正しいものとして、上梓されたはずである。
もちろん翻訳書は、庶民のところには届かなかったはずである。
 
 1908年におきた婦女暴行致死事件から、出歯亀という言葉が生まれるが、
逮捕された池田亀太郎は出っ歯ではなかったらしい。
マスメディアによって捏造された出歯亀のイメージが一人歩きした、と言っているにもかかわらず、筆者は他の活字情報に対しては疑いを知らない。
活字に書かれたことを、庶民はそのまま信じていたかのようである。

 近代の生活様式は、社会生活や経済生活、学校生活、軍隊生活など、さまざまな生活が個別化されていったが、ここでは、「性生活の調和はどうすれば得られるか」といったふうに、「性生活」について説いているところが興味深い。端的に性生活ということばが用いられ、性生活が大きなウエートをもつものとして、個別化され、ある意味では特権化されていく。「夫婦生活」ということばも用いられているが、いずれも男と女の性器の結合だけが問われ、男と女のセクシュアリティが夫婦の性生活を中心にして作りあげられる。P180

 男女関係は、人類の誕生とともにある。
時代が下るに従って観念が肥大してきたのだから、
人間が性器の結合以外の性的な快楽を知るのは、むしろ最近になってのはずである。
江戸時代までは性器部分のみを脱衣し、性交は着衣のままでなされたようだ。
全身が性感帯だというのは最近の発見ではないか。
歴史を遡れば、男女の性器の結合の比重は上がりこそすれ、下がることはない。

 江戸時代の枕絵は、着衣の男女でありながら、性器の結合部分のみを詳細に描いている。
また、男性器をことさらに大きく描いたのも、
女性が男性の精神的な愛情よりも、男性器そのものを欲したためだと考えられる。
各地に残る性器信仰は、性交が性器の結合だった表現と見ることができよう。
佐藤哲郎氏の「性器信仰の系譜」や、 白倉敬彦氏の「江戸の春画」など、筆者はどのように読むのだろうか。

 筆者が文献から読むのは、庶民の性意識ではなく、支配者側の性意識にあったと思われる。
最初から結論があって、性意識が歪められてきたという、結論のための論証である。
 
 再婚を当然のごとく認めず、終生、英霊に操を捧げて仕え、子育てに専念する、「母の力」をマスメディアのみならず、世間も、″靖国の母″に求めたのである。悲哀の極みにあり、困窮にあえぎながらも、けなげに母子助け合い、ときには誘惑されて貞操の危機にさらされながらも、子どものため、英霊のため、″靖国の家″のため、皇国のために、「女性としての一切の幸福を犠牲にして」、母性愛を貰いて克服する、といった母性愛物語が喜ばれたのであり、母性愛から国家愛への回路がマスメディアを通じて大々的に宣伝されていた。P230

 これが筆者の最も言いたかったことなのだろう。
なんと単純な思考回路であろうか。
「女性としての一切の幸福」という言葉を使っているが、この陳腐な言葉の愚かさを自覚していない。
「女性としての一切の幸福」とは、いったい何なのだろうか。
「男性としての一切の幸福」という表現と、同様の不自然さがあるにもかかわらず、筆者は女性なる幸福の内実を自覚していない。

 大々的な宣伝と、それを庶民が本気受け入れるかは、まったく別のことである。
また例え、宣伝を受け入れたとしても、
「女性としての一切の幸福を犠牲にして」再婚しなかったとすれば、再婚しないことが当人の幸福に叶っているからである。
「女性としての一切の幸福」は、再婚にのみあるわけではない。

 個体維持は必ず種族保存に優先する。
性は人間存在において根元的ではあるが、生きるという個体維持に優先することはない。
生きるためには、人間は時として性を犠牲にしさえする。
筆者は、個体維持と種族保存を同じ位相で論じるので、国家の支配意志と庶民の意識を混同してしまうのである。
 
 女たちの”女らしさ”は母性愛へと結晶され、母子の密着した濃やかな母子相愛の関係を築きあげていった。その一方で、男たちはなんの憂いもなく”男らしさ”の装いのもとで、戦地で野放図に性欲を発揮することになった。女たちの母性愛の裏返しが、女を子どもを”産む器”か、”快楽の器”としかみなしえない男たちの男根中心主義であったのである。P239

 凡庸で通俗的な和製フェミニズムから、直接に引用したのかと思われる結論である。
この教条主義的な結論は、現実に生きた男女の実相に迫り得ないばかりか、
この視線は性の快楽から最も遠いところにある。
和製フェミニズムが性的な潤いをもてないという最大の欠陥を、男性論者が引き継ぐことはない。

 本論を読んでいると、筆者の性交は男根中心主義ではない。
筆者は性交とは無縁である、そんな感じを受ける。
性交は誰でも経験することなのだから、性交にまつわる筆者の心情が、行間から滲み出るはずである。
性の歴史を否定的に見るだけでは、和製フェミニズムが女性に忌避されるのも、まったく当然だと思う。

 セクシュアリティの近代という副題をつけた以上、近代の属性を語らなければならない。
「母子の密着した濃やかな母子相愛」は、日本的特徴と呼ばれるものだし、
「戦地で野放図に性欲を発揮する」という表現も、太平洋戦争での日本軍の行動を言ったものだろう。
本書は性意識と家族を強引に結合させている。
近代という属性と日本の近代期の特徴を、筆者は混同したままである。  
(2004.8.27)
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参考:
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高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
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賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003
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匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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瀬川清子「婚姻覚書」講談社、2006
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山田昌弘「新平等社会」文藝春秋、2006
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ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河出書房新社、2004
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信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書ラクレ、2001
菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005
原田純「ねじれた家 帰りたくない家」講談社、2003
A・柏木利美「日本とアメリカ愛をめぐる逆さの常識」中公文庫、1998
ベティ・フリーダン「ビヨンド ジェンダー」青木書店、2003
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001
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下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992
加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004
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シェア・ハイト「なぜ女は出世できないか」東洋経済新報社、2001
プッシイー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002


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