匠雅音の家族についてのブックレビュー    家族の幻影−アメリカ映画・文芸作品にみる家族論|伊藤淑子

家族の幻影
アメリカ映画・文芸作品にみる家族論
お奨度:

著者:伊藤淑子(いとう よしこ)  大正大学出版会、2004年  ¥2100

 著者の略歴− 1982年、津田塾大学学芸部英文科卒業。85年、同学大学院文学研究科博士課程前期修了。就実短期大学専任講師を経て、現在、大正大学教授。主な著書:『自伝でたどるアメリカン・ドリーム』(共著・河合出版)、『菊と棘』(共訳・スリーエーネットワーク)
  「アメリカ映画・文芸作品にみる家族論」とサブタイトルがついた本書は、当サイトの問題関心ときわめて似ている。
当サイトでも「単家族的映画論」として、現代アメリカ映画における家族像について論じている。
思わず買い求めたが、まったくの期待外れだった。

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家族の幻影
 筆者は現在40歳半ばかと思われる女性だが、家族の理解が情緒的で非常に表層的である。
フェミニズムのスタンスから分析してきたと、あとがきで書いている。
しかし、フェミニズムの理解にも、決定的な無知を示して唖然とさせられた。
女性だからフェミニズムを理解できるとは限らない。
 
 現実に即して家族を定義しようとすると混迷をきわめるにもかかわらず、家族という言葉から思い起こされるイメージには、文化的に共有された前提がある。家族を守る強い父親、家族の世話をする優しい母親、その愛情に包まれ育まれる子どもたちという核家族像を離れて家族が語られることも描かれることも、まずないといってもいいだろう。家族の生活を経済的に支えない父親もいるし、料理をしない母親もいる、というような実例がいくらあっても、この家族像がくつがえされることはない。P6

 社会的な家族のイメージは、時代や産業が決めることであり、イメージだけが一人歩きするのではない。
筆者はそれを建前では理解していても、いざ作品の分析になるとすべてを忘れて、ただ感情的に文字を並べる。
家族に対するイメージを、筆者は核家族に限っている。
祖父母のいた時代や老人の単家族など、まったく視野に入っていない。

 今日のアメリカ映画では、旧来の標準世帯つまり男女の対と何人かの子供という家族は、ほとんど見ることができない。
2003年に例をとれば、「ミスティックリバー」だって、3人の主人公は各々に問題を抱えている。
恋愛適齢期」では老人単身者の恋愛である。
「家族を守る強い父親、家族の世話をする優しい母親、その愛情に包まれ育まれる子どもたちという核家族像」は、完全に絶滅したと言っても過言ではない。
結婚の半分が離婚に至る現実の前では、古き良き核家族はたんなる郷愁に過ぎない。

 筆者は、シングル志向の高まりや、結婚しても出産をためらう傾向があって、家族が変容しているとは知っている。
しかし、核家族を家族の典型例と決めつけているので、しばしば家父長制に論及している。
そして、近代資本主義は、家父長制を温存したまま、女性の抑圧を強化したという。
これはまったく通俗的な表現であり、今ではほぼ間違いだと言っても良い。

 近代の進展にともなって、家父長制が機能不全におちいてきたことこそ、フェミニズムの側から語られる必要がある。
アメリカ映画においては、家父長制が問題となっている場面はもはやない。
家父長制が成り立つほどに、家族における男女関係は固定的ではない。
アメリカ映画の分析を通して、次なる家族が模索されている様子を探るべきだろう。

 「家族の写真」「クレーマー、クレーマー」「愛と喝采の日々」「愛と追憶の日々」「カーラの結婚宣言」「母の眠り」「アメリカン ビューティ」「キャッチ ミー、イフ ユー キャン」と作品を取り上げている。
しかし、その取り上げ方が恣意的で、しかも主題を歪曲している。
制作された時代背景など、まったくお構いなしで、時代経過にも論及されずに無視されている。

 膨大な作品から何を取り上げて論じるかは、非常に難しい問題ではある。
全作品を見るとことができない以上、何作かを取り上げざるを得ないが、そこには何か基準が必要である。
しかし、筆者は、知的障害者の結婚をあつかった「カーラの結婚宣言」1999に、家父長制的価値の再構築を読んでいるように、制作者の意図を無視して自己の論を展開する。

 この作品は、情報社会での知的障害の問題として、我が国の「おかえり」や韓国の「オアシス」などと、同じ系列で評価すべきである。
カーラの家族が裕福だからといって、家父長制の規範通りに生きることを、この映画から読みとるのは牽強付会である。
ましてや、この作品と1967年に制作された「卒業」を、同列に論じるのは論外である。

 筆者は時代を無視して、定型化した視点から論じるので、作品の主題が読めない。
主題を鮮明化させるためには、状況設定をより保守的に強調したり、非常識的な状況設定をするものだ。
それによって、言いたいことがはっきりと伝わるようになる。
観客は状況を見るのではなく、主張に共感したり反発したりする。

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 「クレーマー、クレーマー」が制作された1979年には、男性優位が社会にはまだどっかりと居座り、女性は子育ての専従者だという常識がはびこっていた。
そんな時代に、女性が子供を捨てて家出したことを描いたのが、この映画の特筆すべき所である。
法廷での勝負が母親役割の強調になるのは、女性の自立を強調するためには必然でさえある。
法律は時代の後から変わるものだから、この時代に裁判で勝つためには、自分の主義主張と違うこともいわざるを得ない。

 この映画の主題は、裁判で勝ちながら「子育ては母親だけのものではない」と言って、最後にジョアンナが父親に子供を残す選択をしたことである。
女性が子供を手放すことによって、男性と同じ地平に立って自立が可能になった。
女性の社会進出の足かせだった子育てから、女性が解放されたことを読みとるべきである。
この映画を境にして、女性は子供を捨てても良い、と考える契機を与えられた。
筆者は、いまだこの映画の主題を理解できていない。

 1999年制作の「アメリカン ビューティ」に至っては、時代背景がまったく理解できておらず、核家族の前提のままで論じている。

 家族の幸福はもはや思い出のなかにしか存在しないのだろうか『アメリカン ビューティー』は確実に崩壊していく家族を描いてはいるが、新しい家族の可能性は何も示してはいない。(中略)それぞれがもはや「幸福な家族」という動機によっては自己の存在を規定できなくなっていることだけが明らかになる。それでも映画は新しい家族のあり方を未来に探そうとはしない。ノスタルジーを込めて理想化されるのは「昔、そうであったはず」の幸福な家族像である。思い出と想像のなかで、家族はかぎりなく純化される。このとき伝統的な近代家族は、現実とは遠く離れたところで、いっそう強く規範化されることにならないだろうか。P147

 「アメリカン ビューティ」は、核家族がすでに崩壊したところから出発している。
各個人が家族の一員として、役割を果たす時代が終わっていることは、この映画の前提認識である。
だから、核家族の崩壊は決して暗い悲劇ではない。
男女の社会的な存在が等価になったのだから、等価性は家庭内へと浸透せざるを得ない。
女性が人間として自立すれば、母親役を演じ続けることはできない。
女性も一人の個人へと還元されてしまうのは当然である。

 個人しかいなくなった家族が、どう生きていくのかを探ったのが、この作品である。
難しい主題でありながら、リッキーとジェーンという子供のカップルに、きちんと方向性を見いだしている。
核家族から単家族化する方向は不可避である。
そのなかで人間が優しさを失わずに、人間的であり得るかが、最近のアメリカ映画と同様に「アメリカン ビューティ」でも追求されている。

 筆者は、家族像を核家族に固定しているため、社会の変化が核家族との関係でしか読めない。
1995年以降のアメリカ映画の主題は、男性と女性にあるのではなく、子供である。
チョコレート」2001を男女の物語と捉えており、親子という世代が主題だと読めない。
女性であるから自分はフェミニズムを語れると、無前提的に考えているところに根本的な欠陥がある。
これでは我が国のフェミニズムは、再生できないだろう。    (2004.8.06)
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参考:
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G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
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黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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原田純「ねじれた家 帰りたくない家」講談社、2003
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塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001
棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
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