匠雅音の家族についてのブックレビュー    炎のごとく−写真家:ダイアン・アーバス|パトリシア・ボズワース

炎のごとく
 写真家:ダイアン・アーバス
お奨め度:

著者:パトリシア・ボズワース−文芸春秋、1990年  ¥2、300−(絶版)

著者の略歴−ファッション・モデルとしてダイアン・アーバスの被写体にもなる。その後、フリーのライターとなり、モンゴメリー・クリフトの伝記を書いて有名になった。

 アメリカでは1980年代、女性の台頭が華々しかった。
そうした流れをうけて、女性芸術家の仕事が注目され、女性の伝記などもたくさん出版された。
本書はアメリカで1984年に出版された、写真家ダイアン・アーバスの伝記である。
ダイアン・アーバスは、1923年3月14日、ニューヨークはネメロフ家の長女として生まれた。
兄が一人おり、2番目の子供だった。

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炎のごとく
 ダイアン・アーバスはファッション写真家として出発し、
夫のアランと一緒の仕事はそれなりの評価を得て、写真界では名声を獲得していた。
しかし、彼女の名前を知らせたのは、不穏な空気をたたえた奇形者や異常者を撮った写真からである。

 写真はもちろんモノを写すのであり、何もないところでは撮すことができない。
そうでありながら、撮影者によっていささかの違いがでてくる。
そのわずかの違いが、芸術になったりならなかったり、売れたり売れなかったりする。

 写真は芸術である。
しかし、芸術は売れない。
韓国には純粋写真というジャンルがあるそうだが、純粋写真とは芸術的写真のことである。
韓国でも純粋写真では食えない。
写真家は、ファッションや報道・自然といった被写体を求めて、口を糊するのである。

 ダイアン・アーバスも最初は、ファッション写真家だった。
ファッション写真はあたれば売れる。
売るための洋服を撮るのだから、撮影にお金がかかるのは当然、と考えられている。
少しでもよく撮ることが、売り上げ増につながる。
だから、ファッション写真の世界は、それ以外の写真界とは比較にならないくらいに、ふんだんにお金がでる。

 しかし、ダイアン・アーバスは、表現の神様と出会ってしまった。
彼女の作品がグループ展に出されたが、
彼女の写真は当時の観客たちから激しい嫌悪をかった。
見たくないものを見せられた観客の抗議が、写真へのツバとなって表れた。
彼女の写真だけが、毎日ツバを吐きかけられた。

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 リチャード・アヴェドンが、「自分にダイアン・アーバスほどの才能があったら…」と
いった話は有名である。
表現の才能は、時代とは無関係である。
やがて時代が、彼女に追いついてきた。
いまや誰もダイアン・アーバスの才能を疑う者はいない。
彼女がファッション写真を撮れなくなったのは、必然だった。
彼女は離婚し、自己表現を求めてさまよった。
グランド・セントラル駅のホームレスとも知り合いになったり、麻薬をやったり死体を撮ったりした。

 道徳の入りこむ余地はなかった。ダイアンに言わせれば、人間は男女を問わず自由に、できるだけ多くの変化にとんだ性関係をもつべきだった。しかし、そういった愛人たちから感情的に満たされるかどうかということになると、話は別である。ダイアンは性のテクニックについては話すことができた−硝酸アミル(オーガズムを長びかせるとされているドラッグ)を使うとか、愛人のひとりからクライマックスに導かれ、エヴエレストの項上に登ったような気分になるなどと。だが、新たに長つづきする恋愛関係を保てるかどうか、あるいはそれを望むかどうか−誰かに本当に打ちこむこと−については、決して語らなかった。むしろ、もはや愛情など信じていないし、いわんや感情など問題ではないと言いきることが多くなった。P361

 ダイアン・アーバスは自分のマスターベーションを公言し、
生理の出血に誇りをもち、それを大声で語った。
良識を疑うこと、それが才能である。
才能の露出は、顰蹙をかう。
彼女は黒人や既婚者へも、積極的に性的な誘いをかけた。

 神の隣に座ることは、普通の人間にはできない。
彼女は自分が性的な主導権をもったが、自分がフェミニストだとは考えなかったという。
彼女の写真は、奇形者や異常者も自分と同じ人間だといっている。
私はダイアン・アーバスの写真から、人間への温かい目を感じる。

 最初のうち彼女は、ライカを使っていた。
しかし、後年にはMAMIYAのC330に変えた。
これは重いカメラで、彼女はそれを首から下げて、コートにくるんで持ち歩いていたそうである。
40代半ばから体調を壊し、躁鬱症に悩まされはじめる。
肥ったり痩せたりをくりかえしながら、写真の撮影を続ける。

 彼女は有名になっていたが、経済的には困窮していた。
当時千ドルだったペンタックスが、買えなかったといわれている。
カメラを買うために、彼女は写真教室をひらいた。
日本の写真家である奈良原一高は、ダイアン・アーバスの授業を受け、それをすべて録音している。
彼女は1971年7月28日、パームビーチの浴槽で手首を切って、自殺しているのが発見された。
48歳だった。
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参考:
ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995
ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986
佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995
ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998
ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991
伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995
瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983
宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001
奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008
田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991
柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001
パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990
仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 
小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004
小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969
赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003
金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007
町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002
藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985
瀬川清子「食生活の歴史」講談社学術文庫、2001
西川恵「エリゼ宮の食卓 その饗宴と美食外交」新潮文庫、2001
菊池勇夫「飢饉 飢えと食の日本史」集英社新書、2000
アンソニー・ボーデン「キッチン・コンフィデンシャル」新潮社、2001


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