著者の略歴−1919年生まれのアメリカ人。サイレント映画の時代から映画に熱中し、サンフランシスコで2軒の映画館を経営する。1953年からFM放送局で映画評論を担当し、1968年から「ニューヨーカー」で映画評に健筆をふるっている。オーソン・ウェルズの「市民ケーン」を論じた「スキャンダルの祝祭」は有名である。 映画をこよなく愛し、みずからも映画館を経営する女性ポーリン・ケイルが、偏見と独断で書き連ねた映画評論である。 本書は1983年から1985年までの3年間に、ニューヨーカーに掲載された映画評論であり、1作品に対してきわめて長い評論が展開されている。 しかも、表紙のサブタイトルにもあるように、手加減をしないことが真摯な批評であり、それが本当に映画を愛することの表現だという。 私もそれに賛同する。しかし、こうした評論の姿勢はわが国には存在しない。
だから提灯持ち的な文章が多く、わが国の評論はまったく信じることができない。 しかもわが国の評論は、論者のなかにきちんとした基軸がなく、ただ好きか嫌いに終始しているものが多い。 本書の筆者は、試写室をあまり利用せず、映画館で一般の観客と一緒に映画を見ている。 試写室で無料映画を見せられたら、どうしても良いことだけを書くようになり、本当のことが書けなくなるのは当然であろう。 その意味でも筆者の姿勢には共感する。 原書では117本の作品が掲載されているが、翻訳された本書に掲載された映画は88本である。 わが国では公開されていないものもあるが、多くはわが国でも馴染みのものである。 1980年代の前半というのは、ハリウッドにかぎらず、アメリカ映画が低迷していた時代である。 映画会社は解体と再編をくり返していた。 そのため製作本数も、年間400本を超える今日に比べると、200本程度と作品数がずっと少ない。 また作品のレベルもそれほど高くなかった。 本書はアメリカ映画の評論ではなく、アメリカで公開された映画の評論である。だから、イタリアの「山猫」や日本「細雪」などの映画も含まれている。 筆者は「山猫」を絶賛する。 ルキノ・ヴィスコンティの壮麗な1963年の作品「山猫」を、ついに完全な形で見ることができて、心から堪能した。P66 「山猫」はひとつの文化ぜんたいを呼びおこすほどの感動を観客に与える。この映画が投げかけるのは知的な魔力−知的で陶酔にみちた魔力だ。P67
「山猫」はわたしの知るかぎり、貴族階級をその内部から描いた唯一の映画である。(中略)この映画は、公爵の優雅さが彼の地位の一部であることを実感させる。われわれの社会とそれとはほとんど完全に異質な価値観に敬意を払いたい気持ちにさせる。1本の映画がなしとげられることとしては、すくなからぬ偉業である。P73 といった具合に、上下2段組の小さな賛美の文字が、8ページにわたって続く。 たしかに「山猫」はいい映画だが、この絶賛には筆者のヨーロッパ・コンプレックスを感じる。 アメリカン・ニューシネマの発見者である筆者でも、ヨーロッパ・コンプレックスがあった。 アメリカン・ニューシネマの台頭は1970年頃からだった。 だから、この時代はアメリカ人のヨーロッパ・コンプレックスがまだ抜けていなかったのだろう。 いや実は今日でも、アメリカ人のヨーロッパ・コンプレックスは強いのだ。 こんなに絶賛しているのは例外で、興行成績がいい映画でも、多くはボロボロにたたかれている。 筆者にはきちんとした規準があり、それから逸脱するものはどんなに人気があっても評価は低い。 「ダーティハリー」といえば、クリント・イーストウッドを有名にした映画でもあるが、筆者は次のように言う。 イーストウッドの映画作りを初歩的と呼ぶのは、婉曲的表現に過ぎるだろうか。P145 ヨーロッパ・コンプレックスを別にすれば、筆者の姿勢はきわめて真摯である。 好き嫌いの印象記ではない。 語るべき作品には、たとえ悪い評価であっても、なぜ悪い評価なのか、どこが悪いのかと筆を尽くして論じている。 長く論じることが必ずしも良いとは限らないが、良質な作品は語るべき内容がある。 良い作品とは、長い文章にて微に入り細にわたっての評論に耐えるものである。 取り立てて論じるべきものを持たない作品は、文章を費やそうにも語ることがないから、良くない作品なのである。 長く論じられた作品は、それだけで一応の及第点がでたと言っても良い。 「インディ・ジョーンズ−魔宮の伝説」は、ふつう単なる娯楽映画と見なされて、評価の対象になりにくい。 しかし、筆者は内容や強引さを云々しない。 この手の映画は、途方もないほら話を、目の前に見せてくれればいい。 しかも、観客の想像力をはるかに超えて、魔術を見せてくれればいいのだという。 これには私もまったく同感である。 映画は表現であると同時に、娯楽である。 まず楽しくなければならない。 アメリカの映画評論家は、グッド・バッド・ムービーとバッド・グッド・ムービーという区別をする。 前者はすてきな娯楽映画、後者はつまらない芸術映画であろうか。 もちろん筆者は、グッド・バッド・ムービーの熱烈な愛好家であり、頭の痛くなるようなバッド・グッド・ムービーには至極点が辛い。 わが国の映画評論家たちが、いまだにヨーロッパの映画を芸術性に優れたものとしている。 しかし、ヨーロッパ映画の芸術性はすっかり消え失せてしまった。 フランス映画やイタリア映画の凋落をみても、アメリカ映画をきちんと評価できない石頭の評論家ばかりである。 わが国でも、本書のような映画の評論が確立されんことを祈っている。
参考: ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995 ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990 長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995 池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986 佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000 伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004 篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995 ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998 ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991 伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995 瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983 宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004 荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001 奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008 田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991 柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001 パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990 仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004 小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969 赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003 金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007 町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002 藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006 バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985 瀬川清子「食生活の歴史」講談社学術文庫、2001 西川恵「エリゼ宮の食卓 その饗宴と美食外交」新潮文庫、2001 菊池勇夫「飢饉 飢えと食の日本史」集英社新書、2000 アンソニー・ボーデン「キッチン・コンフィデンシャル」新潮社、2001
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