匠雅音の家族についてのブックレビュー    楽しみと日々|金井美恵子、金井久美子

楽しみと日々 お奨度:

著者:金井美恵子(かない みえこ)金井久美子(かない くみこ)
   平凡社  2007年   ¥1900−

著者の略歴− 金井美恵子:小説家。1947年、高崎市生まれ。小説に「岸辺のない海」、「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞〉、「タマや」(女流文学賞)、「恋愛太平記」、「噂の娘」、「快適生活研究」ほか、エッセイに「遊興一匹、迷い猫あずかってます」、「愉しみはTVの彼方に」、「待つこと、忘れること?」、「スクラップ・ギャラリー 切りぬき美術館」、「目白雑録」(1、2)ほか多数。
 金井久美子:画家。1945年、北京生まれ。著書に「ノミ、サーカスヘゆく」、「待つこと、忘れること?」、「ネコのしんのすけ」ほか。青山ブックセンター(02年)、アートスペース美蕾樹(03年)、中京大学アートギャラリーCスクェア/ギャラリー椿(グループ展「封印された星、瀧口修造と日本のアーティスト達」05−06年)にて個展開催。

 映画を題材に、文章は妹の美恵子さんが書き、オブジェは姉の久美子さんが作っている。
しかも、オブジェの撮影には、これまたプロの写真家が2人かかわっている。
全ページ光沢のある紙で、お金のかかった本である。
この本に1900円を払ってくれるのだから、読者とはありがたいものである。
TAKUMI アマゾンで購入
楽しみと日々

 筆者の金井恵美子さんは、昔から映画好きだったらしく、古い時代から映画を見ている。
そして、たくさんの蘊蓄を傾けたり、正直に若すぎて判らなかったと言っている。
それにしても、良く覚えているのには感心する。
ボクも「勝手にしやがれ」とか、「太陽がいっぱい」など見ているが、ほとんど忘れてしまった。
しかし、筆者は丁寧に論じており、ほんとうに驚かされる。

 筆者は思ったことをズバリと言っており、読んでいて気持ちが良い。
リメイク作品など、原作ときちんと比較して論じているのも、見習うべき点だろう。
トッド・ヘインズがダグラス・サークの「夫はすべてを許し給う」をもとに撮った「エデンより彼方」について、次のように言っている。
 
 50年代のファッションを着て登場するジュリアン・ムーアの、あの腰の太さ一つをとっても、『エデンより彼方に』は、50年代を時代背景に選んだことの失敗はあきらかである。「一かかえあれども柳は柳かな」と加賀の千代女は、柳腰ならぬ腰をからかわれて詠んだけど、撮影当時妊娠5か月だったというムーアには、プロの女優としてあの腰を「柳」と呼べるのか、と問いたい。実際はともかく、映画の中での50年代は、女優たちの細いウエストを強調したファッション(と、その他いろいろ)によって世界が成立していたのであり、まだそのことを記憶している人間は大勢生きているだけではなく映画も見るのだ、と、ソダーバーグ以下の関係者に問いたいという気持になるのは、50年代のハリウッド映画における、タイト・スカートとフレア・スカート(そして、パンツ)の持っていた象徴的意味がここではまったく無視されているからだ。P9

 たしかに50年代は、男性が男性的で、女性が女性的だった。
筆者が言うように、女性には細いウエストを強調したフレーヤー・スカートや、お尻回りの線をくっきりと出したタイト・スカートが憧れだった。
この映画のジュリアン・ムーアの大きな腰回りとは違う。

広告
 しかし、50年代のAライン・ファッションは、男女差別がまかり通っていた時代のものであった。
女性は、ボディラインを強調した服を着て、将来の配偶者を見つけたのだ。
一種の性的なフェロモンをふりまくことが、当時の女性ファッションだったのである。
それが女性に職場を与えなかった時代のファッションだったのである。

 時代のファッションが主題になった映画であれば、時代考証に忠実にあるべきである。
だが、この映画はファッションを描いた映画ではない。
とすれば、妊娠5ヶ月の大きな腰回りで演じても、まったく問題ないだろう。

 むしろ50年代の映画には、妊娠5ヶ月の大きな腰回りの女優が、主役をはれることはありえなかった。
それを見るべきではないだろうか。

 筆者は1947年生まれとすれば、当年とって62歳であり、けっして老化をいう年ではないだろう。
にもかかわらず、本書は過去の映画に多くを費やし、しかも、過去の作品を褒めちぎっている。
長く生きるとは、過去の蓄積をたくさん持つことではあるが、だからこそ最新のものも評価できるはずである。

 ヴィスコンティの「山猫」は、ポーリン・ケイルも絶賛している映画で、筆者も一家言述べている。

 『山猫』の後半のクライマックス、大舞踏会の大勢の貴族の令嬢や夫人たち(シチリア地元の本当の貴族が演じています)が暑さと疲れで下着姿になって午睡するシーンの、物凄い数で並んだおまるの匂いを受け入れることが出来れば、退屈さはぐつと半減し、ヴィスコンティの再現に賭けた夢の世界を楽しむことができるのに違いありません。P28

 高崎市生まれで、皮肉屋の筆者のことだから、おまるはかつての自宅の汲み取り式便所を思い出させて、とても耐えられないと思ったのだろう。
しかし、ちょっと待って欲しい。
貴族たちの生きた時代には、宮廷にトイレがなかった。
男女をとわず、立って用を足していたはずである。
もちろん、女性たちは高価な衣装の下には、パンツをはいてなかったから、立ち小便ができたのだ。

 貴族の女性たちの立ち小便は、「身ぶりとしぐさの人類学」でいう農家の女性たちの立ち小便とは方法が違う。
彼女たちは立ったまま、お付きの者に女性用の溲瓶をあてがわせたのだ。
スープ茶碗のような女性用の溲瓶は、バーナード・ルドルフスキーが「さあ横になって食べよう」のなかで、写真入りで紹介している。

 排泄直後の汚物は、それほどの匂いはない。
また、貴族の女性たちは、排泄にたいして羞恥心がなかったので、こうしたことが可能だったのだ。
そして、筆者が呆れるように「山猫」のようなシーンのなかでも、午睡が楽しめたのである。
  (2009.6.5)
広告
 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995
ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986
佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995
ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998
ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991
伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995
瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983
宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001
奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008
田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991
柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001
パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990
仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 
小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004
小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969
赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003
金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007
町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002
藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006

斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる