匠雅音の家族についてのブックレビュー    身ぶりとしぐさの人類学−身体がしめす社会の記憶|野村雅一

身ぶりとしぐさの人類学
身体がしめす社会の記憶
お奨め度:

著者:野村雅一(のむら・まさいち)−−中公新書、1996 ¥680−

著者の略歴− 1942年広島県に生まれる。1966年京都大学文学部卒業,京都大学人文科学研究所助手,南山大学文学部講師などを経て,現在,国立民族学博物館教授,総合研究大学院大学文化科学研究料教授(併任)。著書「しぐさの世界」(日本放送出版協会)「ボディランゲ−ジを読む」(平凡社)「ボディランゲージの世界」(ポプラ社)「ふれあう回路」(共著,平凡社)訳書「シエラの人びと」(ビット=リバーズ著,弘文堂)
 女性も立ち小便した、と筆者の実体験から本書は始める。
人の身ぶりやしぐさは、さまざまにある。
歴史にもまれながら形作られてきたものであり、各社会に特有のものである。
それらには長い社会的文化的な背景がある。
しかし、それが情報化や技術革新の波によって、消滅しようとしている。
それを何とか書き留めようとするのが、本書の狙いである。
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 身ぶりとしぐさといえば、エドワード・T・ホールの「かくれた次元」だろう。
本書でも、ホールの話は何度もでてくる。
ホールは、個体間距離を民族の文化の違いで説明しようとしたが、
さすがに筆者には時間の流れも視野に入っている。

 しかしながら、たとえ需要−供給に顕著な不均衡があっても、身分や地位にかかわらず先客(着)優先の 原則がなければ、だれも列をつくって順番を待とうとはしないだろう。行列が頻繁にみられる現代の公共的場面では、 年齢や社会的地位や性差や人種差などは体系的に無視されるが、そうした先客(着)優先の平等主義がないところでは行列は生まれない。 行列をつくって順番を待つという習慣は、たとえば士農工商の身分制社会でほかんがえられないように、元来が西欧の近代社会に特有な行動様式なのである。P35

 まさにその通りで、私のアジア旅行記でも何度もそれを指摘している。
むしろ行列が作れるかどうかが、近代化の判断基準といっても良い。
行列の作れないインドもモロッコも近代化していないし、
行列が作れるようになった中国は近代に入っているのである。
では、行列が作れないところではどうするかというと、
先着順ではなく簡単なものから片付けるのだ。
そして、切符を買うといった簡単なもの場合は、押し合いへし合いの体力勝負になるのである。

 椅子が今日のように個人用となったのは、18世紀からだといわれている。
それまでは床に座ったり、ベンチに腰を下ろしていたのである。
最後の晩餐だって、銘々が個人用の椅子に腰掛けていたのではなかった。
バーナード・ルドルフスキーの「さあ横になって食べよう」の表紙にあるようなものだった。
またベッドも同様で、1人1人が1台のベッドを使うようになったのは、つい最近である。
それまでは何人かで1台の大きなベッドに寝ていたのである。
だからもちろん、プライバシーなどあるはずがなかった。

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 挨拶にもそれぞれの民族の個性がでており、
握手も文化的な背景のもとに生まれたものだ。
今ではイギリス人は握手も嫌がるほど接触を嫌うが、握手はイギリスで男性間の挨拶として誕生した。
握手は手を握るのではない。
シェイクハンズと呼ばれるように、握った手を3回ばかりゆするのが、握手である。
握手は平等主義の表れだが、それでも握手したときに相手の肩をつかむのは、
目上にだけ許された行為である。
しかも、握手をうみだしてきたのは、職業という社会生活を営んできた男性だった。

 握手はもともと男性の行動であって、子どもはめったにしないし、女性の中にほ未だに気持ちよく 受け入れない人もいる。だから女性の方からまず手を差し出すことを承認すべきである。(中略)女性同士は一般に握手をしないし、 男性に紹介されても手を差し出さないことが多い。ただし、進歩的な女性は必ず握手をする。P87

と、ブロズナハンの言葉を引用している。
もちろん進歩的な女性とは、職業に携わる女性のことである。
今日、職業に生きるアメリカ女性は、自分から握手をする。
産業社会の成立が握手を広めたわけだから、女性もやっと職業人の仲間入りをしはじめたということだろう。
女性の特性に生きるといわなければ、女性特有の挨拶を生みだすことはあり得ない。
女性の特性という発言は、両性の平等に反する。
だから、フェミニズムの課題は、膨大であり遠い道を行くのだ。
 
 近代社会で制度化された恋人という関係は誠実さによって支えられているから、恋人たちは無意識裡にも少しでも不実な徴候をみつけようとして、たえず相手の顔をみつめたり手を取ってみたりする。恋人同士はふつう顔面や手などの身体の″外面″はコントロールして整合性をたもつものだが、おもわぬところから本心の一部が顔をのぞかせて、外面がニセモノであることがわかることがある。P139

 人間の関係性が心理的なものだけになり、
制度や血筋はその人物を保証しない。
全員が平等になった近代社会は、恋人の本心を求めて不安におののく。
それはもちろん、自分の本心すら分からないのであり、
関係という頼りないものが恋人同士の拠り所なのである。

 本書は、ほかにもVサインや親指の効用などなど、多くの個人の身ぶりやしぐさを探っている。
欠落しているのは、筆者が最後で認めているように、
関係のなかでの非言語的なコミュニケーションである。
それは大胆な仮説と、膨大な研究が必要であり、いまの筆者の手に余るのであろう。
今後に期待したい。

 新書であるからこの程度で良いのかも知れないが、
本書がおもしろいが故にいまいち気になるのは、
筆者の慧眼とか独創というのが感じられないことである。
どの話題もすでにどこかで知ったことが多く、他の参考文献からの引用がほとんどである。
面識のない私の質問にも、丁寧に返事をくれる筆者だから、
真面目な学究であると思うし、筆者を貶める気は毛頭ない。
しかし、ホールの研究といい、独創的な視点が展開されるのは、どうも外国人からである。
それが残念である。
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参考:
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
今一生「ゲストハウスに住もう!」晶文社、2004年
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
青山二郎「青山二郎文集」小沢書店、1987
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002

谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004年 
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」鹿島出版会、1985
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神」河出書房新社、2001
マイケル・ルイス「ネクスト」アウペクト、2002

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