匠雅音の家族についてのブックレビュー     隠された風景−死の現場を歩く|福岡賢正

隠された風景
死の現場を歩く
お奨度:☆☆

著者:福岡賢正(ふくおか けんせい)  南方新社、2005年   ¥1600−

 著者の略歴−1961年熊本県生まれ。京都大学農学部卒。83年毎日新聞社入社。久留米支局、福岡総局社会部、人吉通信部、福岡総局学芸課を経て、現在は福岡南支局長と学芸課編集委員を兼ねる。著書に『国が川を壊す理由』(葦書房)、『男の子育て風雲録』(毎日新聞社)、『たのしい不便』(南方新社)がある。

 見たくないもの、触れたくないものには、あえて手を出すべきではない。
見たくないものはこの世に存在しないのだ、といった風潮がある。
そうした風潮に抗して、鋭い問題意識を、非常な困難にもめげずに、貫徹したことに敬意を払う。
毎日新聞の連載記事だったというが、企画し取材した筆者も凄いが、それを許した編集長も偉い。
本書には星を2つ献上する。
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 口当たりの良い文章だけが、書籍となって公刊されていく。
批評とは名ばかりで、多くは褒めあいに終始する、仲間内ので言葉の遊びにすぎない。
解放の思想だったフェミニズムだって、女性差別の根幹には触れようとしないし、少子化だって本当の理由には論究しない。
しかし、物事を突き詰めて考えることは、口当たりの言い話題ばかりとは限らない。
むしろ、好き嫌いによって、辛い思考を回避すれば、得られる認識は現実とまったく違ったものになる。

 本書が扱うのは、第1部で犬や猫といったペットの処理、第2部で食肉のための屠殺、そして、第3部で自殺である。
いずれも平生は衆目に晒されないが、この世に厳として存在するものである。
多くの人は、これらについて語ろうとはしない。そのため特別の人へと、偏見が集中している。

 前近代では多くの犬が、狂犬病に感染している。
途上国へ行くと、狂犬病の犬が少なからずいる。我が国でも戦前は狂犬病の犬がいた。
1950年に施行された「狂犬病予防法」によって、鑑札や予防注射が義務づけられた。
徘徊する飼い主不明の犬は、狂犬病予防技術員によって捕獲・収容されるようになった。
これによって狂犬病の危険から、逃れることができるようになった。

 現在、ペットは日常に溢れている。
大量のペットは、当然に子孫を残そうとする。
しかし、飼い主は全てを飼い続けるわけではない。
不要となれば、保健所へと持ち込む。
人々が持ち込んだ不要犬、不要猫と、抑留期間が過ぎても飼い主が現れなかった捕獲大は、安楽死処分される。
98年度にはその数が、犬猫あわせて全国で64万匹にのぼったという。

 ペットを可愛がるのは良い。
しかし、捨てられたペットを放置すれば野犬となる。
野犬が増えれば社会の害悪となる。
そこで仕方なしに屠殺することになる。
多くの人は屠殺の現実から、目を逸らしている。
ペットを屠殺する動物管理センターの所員に、次のように語らせている

 「徘徊犬が、登校する子どもについて学校に来ることがよくあるんですね。危険だから捕まえてくれと電話があると、他の仕事は全部差し置いて行くわけですよ。すると先生が開口一番、子どもの前では捕まえんでくれ、ですよ。現実を子どもにきちんと教え、そのうえでいのちの意味を正しく理解させるのが先生の役目でしょうに」
 現実に目をふさぎ、表面だけ優しげに取り繕って語られる「いのちを大切に」という言葉。 そんなものが子どもたちの胸に響くはずがない。それどころか、その態度から子どもたちは建前と本音を使い分ける今の社会のずるさを学ぶだろう。P29


 表面では子供に向かって、命を大切にせよという。
しかし、子供には内緒で、命を奪えと大人は命令する。
件の所員が嘆くとおり、今の大人たちは偽善者である。
表面だけ取り繕い、辛い現実は自分の見えないところに追いやる。
そして見えないものは、この世に存在しないかのごとくに振るまう。

 筆者は屠殺に従事する人たちへの偏見を問題視する。
それももちろんあるが、それ以上に表面だけを取り繕う思考は必ず破綻する。
そのことのほうが問題である。
かわいいとか、やさしいとか、心地よいものばかりが、もてはやされて、現実を見なくなっている思考は、必ず現実からしっぺ返しを食らう。

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 「死」という最も辛く、厳しい体験を、思考の外に追い出してしまうと、生が見えなくなる。
そして、可愛さも優しさも判らなくなっていくだろう。
正だけで正を、悪だけで悪を、認識することはできない。
生も同様であり、死があるから、生が理解できる。
正悪は常に同じことの両面である。
それは第2部の屠殺場の話では、もっともっと深刻に感じさせられる。

 人間は食べないと生きていけない。
植物だけではなく、動物も食べる。
しかし、生きたまま食べるわけにはいかない。
誰かが殺さなければ、食卓には上らない。
屠殺の過程が見えなくなって、自分の口にする肉と、元になった生き物が結びつかなくなっている。
その乖離が思考を麻痺させる。可愛いと可哀想が、思考を停止させている。

 人間は空腹になれば、生きているものを殺して食べる。
どんな動物でも、他の生き物を食べて、生きながらえる。
それが食物連鎖だ。動物の死に涙しながらも、空腹になった子供たちは、美味いといって肉を食べる。
それを小学生の体験談から、筆者は淡々と伝える。

 屠鳥する時に涙を流し、一息にいのちを奪ってやることができずに何度もためらい傷を負わせ、「二度とやりたくない」と書いた典型的な現代っ子である(食品流通科の)高校生たちも、多分飢えれば、鶏だろうが、牛だろうが、豚だろうが、いのちを絶って食べるはずだ。そして野良犬が横行し、自分らの身が危うくなれば、退治に乗り出す。
 私たち人間はそういう生き物であり、だからこそ子孫を残して生き永らえてきた。
 つまり、人が生きるために絶った他の生き物のいのちは、人の体の中で生き続け、子孫に受け継がれてきた。
 人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。
 いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。P128


 筆者の目は、生きることに注がれる。
そして、その反対にある自殺=自ら命を絶つことにも向けられる。
よく生きるために、死を見つめる必要がある。
自殺はある意味では、人間の尊厳の保持でもあろう。
しかし、筆者は自殺者の遺書をひもときながら、自殺に関して考察を深めている。

 我が国の自殺は、尊厳死としての自殺ではなく、多くは逃れるように自殺を選んでいる。
自己の尊厳を保つために、自ら望んで死んでいるわけでは、決してない。

 日本の完全失業率の推移と、この経済生活問題での自殺者数の増減とは見事に連動している。
日本では不況で失業者が増えれば、そのままストレートに経済苦で自殺する人が激増するのである。
倒産やリストラで個人が経済的な苦境に陥った時の社会的なクッションが不十分であることを、この事実は教えている。

 現在、この国が推し進めている構造改革の基本理念は競争と自己責任だ。
競争原理を導入し、民間の自助努力によって経済の活性化を図るというそれは、「痛み」を伴うと言われている。
その「痛み」がどんなものか、ほとんどの自殺が隠されている今、人々は実感できていない。

 交通事故死は年間1万人以下だが、自殺者は3万人を越える。
交通事故より、はるかに多くの人が自殺している。
しかし、その多くは巷間の話題に上らない。
本サイトも、一度自殺について調査しようとしたことがあったが、プライバシー保護の名のもとに、警察の資料は一切見せてもらえなかった。

 西洋先進国では、自殺者の心理を克明にたどる調査が進み、自殺防止に役立てようとしている。
しかし我が国では、自殺防止には全くの無策である。
自殺者の遺族は、世間の冷たい視線を浴びている。
同じところに住み続けるのが難しく、転居していく遺族が多い。
そうしたなか、自殺防止に取り組んで、画期的な成果を上げている希有な町があるという。
新潟県松之山町では、かつて年間数人いた自殺者が、ほとんど零になったという。

 本書は、どのページを読んでも教えられところあって、引用する部分を探すのが難しい。
しかも、こうして書評を書いても、本書の真価が伝わらないもどかしさを感じる。
平易な文章で書かれた本書は、本当に読むに値すると思う。
筆者の立場と当サイトは、必ずしも同じ立場に立つものではない。
そうでありながら、筆者の視線と本書は、敬意を払うに値する。 
(2005.08.09)
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参考:
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
松本彩子「ピルはなぜ歓迎されないのか」勁草書房、2005
榎美沙子「ピル」カルチャー出版社、1973
ローリー・B.アンドルーズ「ヒト・クローン無法地帯」紀伊国屋書店、2000
沢山美果子「出産と身体の近世」勁草書房、1998
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史」勁草書房、1994
ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房、1999
小浜逸郎「「弱者」とは誰か」PHP研究所、1999
櫻田淳「弱者救済の幻影」春秋社、2002
松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、1981
ハンス・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
小沢牧子「「心の専門家」はいらない」洋泉社、2002
佐藤早苗「アルツハイマーを知るために」新潮文庫 2007年
多田富雄「寡黙なる巨人」集英社、2007
熊篠慶彦「たった5センチのハードル」ワニブックス、2001
正村公宏「ダウン症の子をもって」新潮文庫、2001 
高柳泰世「つくられた障害「色盲」」朝日文庫、2002
加藤康昭「日本盲人社会研究」未来社、1974
北島行徳「無敵のハンディキャップ」文春文庫、1997
アリス・ミラー「闇からの目覚め」新曜社、2004
御木達哉「うつ病の妻と共に」文春文庫、2007
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997

ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社

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