匠雅音の家族についてのブックレビュー     椅子と日本人のからだ|谷田部英正

椅子と日本人のからだ お奨度:

著者: 谷田部英正(やたべ ひでまさ)  晶文社、2004年   ¥1800−

 著者の略歴− 1967年東京武蔵野市生まれ。筑波大学大学院卒。体育学修士。学生時代は体操競技を専門とし全日本選手権、インカレ等に出場。選手時代の姿勢訓練が高じて日本古来の身体技法を研究する。姿勢研究の一環として99年より椅子の開発に着手。国際日本文化研究センター特別共同研究員を経て、2002年文化女子大学大学院博士課程修了(被服環境学) 身体を軸とした「物づくり研究」は、椅子、食器、服装、建築と広い守備範囲をもつ。石州流茶道を嗜む。
 我が国の椅子は、長く座っていると疲れる。
とくに自動車の椅子は、長時間のドライブには、拷問器具になる。
それにひきかえ、西洋諸国の自動車は、みな座り心地の良い椅子を備えている。
しばしばこのように言われる。
筆者も、シトロエンの椅子と国産車の椅子を比較しながら、同じようなことを言う。
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 筆者は若いときには体操の選手だったが、引退してからは身体に適した器具の研究を行っているとか。
「武蔵野身体研究所」を設立して、研究にいそしんできたとあるが、本書を読む限りでは、独力での研究のようである。
おそらくそれが本書の素晴らしい視点を支えているのだろう。
既存のアカデミズムなどにはいると、どうしても既存の手法が身に付いてしまい、独自の視点を打ちだせないことが多い。

 人間工学が主流の今、気配とか、感覚といった部分で、身体の研究を進めるのは、非常に難しい。
数字などで表現しないと、学術論文として認めないので、どうしても曖昧な部分は切り捨てることになる。
それが結局人間に迫れない原因になっているのだが、筆者は実際に自分の手や身体を使っているらしく、微妙な感覚が本書の行間から伝わってくる。

 医者と学者とメーカーが結託して、ひとつの理論で世界を支配しょうとすると、経験的な歴史の上に積み重ねられた繊細な技術は、それが「言葉にならない」という理由で時代の波に呑み尽くされてしまいかねない。実際問題としてクリエーションの最高蜂の技術というのは、およそ言葉を超えた感覚領域でみなしのぎを削り合っている。その技術があまりにも繊細であったがために、ある大雑把な合理主義に呑み込まれ、すべてが経済効果へと還元されてしまうような世界の風潮に対して、もはや悲鳴にも近い危機感を察してこの研究をはじめた。P15

 筆者の心意気をおおいに買う。
私は自分で職人を体験し、建築の世界に30年暮らして、ようやく筆者の嘆きがわかった。
私自身も、社寺建築という古い世界にいたので、現代建築に近づこうとしても、何だか妙な壁を感じる。
建築におけるアカデミックな世界と、社寺建築の世界とは、一部では繋がっているのだが、肉体を通したという意味では、互いに了解不可能なように思う。

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 本書は、既存の世界からはみ出しそうになりながら、よく踏ん張っている。
とくに、姿勢に関する研究から、日本人の身体や着衣の様子などに至り、実際に椅子を創りだしてしまった。
この作業は瞠目すべき過程である。
それにスポンサーとなってくれた人も登場しており、筆者の真面目な人となりも想像がつく。

 かつて日本には、道具に依存せずに人間の技を磨くことを大事にしてきた伝統がある。一方ヨーロッパの道具は人間の安楽性を重視して、道具の機能を様々に進化させる特徴がある。近現代の技術観は後者の方に大きく傾いてきたわけだが、そのことがかえって人間の身体能力を低下させてきたことも忘れてはならない。人間に自立を促す日本の道具のあり方には、現代人が考えるべき様々な問題が示唆されているように思うのだが、そうした問題意識も持ちつつ、日本の伝統的な坐法を西洋の椅子という文脈のなかで再構成することを試みた。P88

 和魂洋才的なところがないでもないが、筆者の問題関心から現実に作品が呈示されており、興味深い。
椅子のみならず、フォークやナイフといったものまで、身体研究からデザインしており、懐の深さが伺える。
本書をつらぬく全体の主張には、原則として同意する。
しかし、椅子座と床座を、ヨーロッパ対日本といった切り口につなげるのは、必ずしも賛成できない。

 ある椅子研究者の考えでは、一般庶民に椅子が普及したのは十九世紀の後半になってからのことで、もしそうだとするとヨーロツパ全体が本当の意味で椅子社会になったのは、日本が明治維新を迎えた頃とそんなに遠く離れてはいない。P95

 と筆者もいうように、どこでも床座が始まりであり、近代の開始とともに、椅子座が日常生活に普及したのではないか。
前近代というのは、人間の個体間距離も短く、大地に尻を付けて生活するのが、あたりまえの姿だったように思う。
饗宴」でも、プラトンたちは寝そべって食事をしており、キリストの最後の晩餐も、本当は寝そべっていたという。
それが近代に入る過程で、テーブルでの最後の晩餐が描かれ、それが有名になったので椅子座を怪しまなくなったという。

 筆者の問題関心は、現在の人間にあるのだから、歴史的な事情に関心がないのは当然であろう。
しかし、アジアを歩くと、田舎の人々は今でも大地に尻を付けて生活している。
急速な近代化にともなって、都会人たちは椅子座へと移行している。
それが同時代的に進んでいるのがよく判る。

 我が国の椅子生活は歴史が短いせいか、机の下での足の所作ができなかった。
テーブルに隠れてしまうのを良いことに、足には何の神経も払われず、足は勝手放題だった。
しかし、最近の若い人たちを見ると、テーブルの下であっても、きちんと足を揃えている。
これは明らかに足の仕草にまで、神経が行き届き始めたことを意味する。

 本書を読みながら、歴史分析にはいささかの違和感を感じたが、地道な研究が良く続いていると、感心することしきりだった。
今後もこの姿勢を続けて欲しい。    (2004.4.30)
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参考:
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」鹿島出版会、1985
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970

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