匠雅音の家族についてのブックレビュー    ねじれた家 帰りたくない家|原田純

ねじれた家 帰りたくない家 お奨度:☆☆

著者:原田純(はらだ じゅん)  2003年 講談社 ¥1700−

 著者の略歴−1954年、東京都に生まれる。父は1950年代から80年代の出版界で名をとどろかせた辣腕編集者。中学生で、全国中学生共闘会議などに参加し、15歳で和光学園和光高校中退。その後、新宿や銀座などで、水商売を転々とする。1980年、長女出産。印刷会社に勤務ののち、職業訓練枚で学び、版下製作会社に勤務。1989年、径書房に入社。この間の約三年間、大学の授業を聴講し、竹田青嗣氏に師事。現在、径書房代表取締役。
 家族は怪物である。
筆者は父親に入れられず、家族をめぐって、えんえんと格闘を続けてきた。
本書は壮絶な戦いの記録である。

筆者は、中学ですでに問題児。
高校を中退し、水商売にはいる。
こんな青春時代をすごしても、親が職人や水商売なら問題はなかった。
職人や水商売は、異端児を受け入れてくれる。
しかし、父親は敏腕編集者なのである。
家にいられなくなるのも、時間の問題だった。

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 一家を背負った父親は、家に稼ぎをもたらすために、必死になって働いた。
仕事こそ我が命とばかりに、家庭をなげうち、すべての時間を仕事に捧げた。
そして、女性である妻が、銃後の支えよろしく、家庭を守って子育てに専従した。
サラリーマンが全盛になりつつあった1960年代は、男性である一家の父親が、仕事に邁進するのは正義だった。
しかも、筑摩書房のだしていた<展望>の編集長である。
表面的に見れば、悪いのは子供のほうである。

 原田家では父親が編集者であったため、不定期な勤務時間だった。
それにくわえて、父親が職場至上主義的なイデオロギーを、家庭に持ちこんだ。
父親の稼ぎのために、家族全員が協力すべきだ、と父親は無意識のうちにほのめかす。
家族の全員が、仕事至上主義に奉仕させられることになった。
共産党員→ベ平連→ウーマンリブと、かつて軍国少年だった父親の仕事が変わるにつれて、家族はふりまわされた。

 父親は忙しいなかでも、家族サービスもする。
家族そろっての旅行にも行けば、ピアノの練習にも行かせる。
おそらく子供たちを可愛がったことだろう。
しかし、父親は自分の生き方を、子供に押しつけるだけで、子供を人格としてみることはできなかった。
男たる自分が家庭を作っているんだ、養ってやっているんだ。
嫌なら出ていけ、という。

 父親は優しい言葉で言っているだろう。
しかし、言うことを聞かなければ、どうなるか判らない。
無言のナイフを突きつけて、子供に従えと迫る父親。
父親の言うことは、当時の世間の常識だった。
父親は正しい躾をしていると信じて疑わない。
母親も父親の味方である。
子供は愛され、自分の存在を肯定されるという、自尊心がもてない。

 父親は子供を愛しているが、子供は愛されていると感じることができない。
だから、子供は浮遊する自分を止めることができない。
やがて家出につながっていくが、中学生が家出して、どうやって暮らしていけるというのだ。
しかし、家出の繰り返し。
結局、親から見放されていく。
 
 <親からの虐待や呪縛を聞き続けることを仕事にして思うことは、親のむごい仕打ちを訴える人々の抱く親への愛の深さである。愛したいからこそ、親の仕打ちがこたえる。だから彼らは「加害者である親」について語り続けるのであって、理想的な親についての憧れがそれをさせるのではない。そこには「親に愛されなかった自分」の存在を、他者に承認させなければならないと考える強迫がある>

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と斉藤学氏が、ネット上に書いている。
まさにその通りだ。
本書の筆者も、親に愛されたいが、親から拒否されてしまう。
ますます親にすがりたい。
しかし、裏返った表現しかできない。
登校拒否、家庭内暴力、万引きなどなど、悪いのは子供である。
親ももてあまし、親から見捨てられていく。

 親が学校へ行かせているのに、学校へ行かない子供が悪い。
親があんなに心配しているのに、ひどい子供だ。
そう見る世間の目を、子供も持ってしまっているから、自分が間違っていると思わざるを得ない。
自分が悪い、しかし、自分は悪くない、と揺れる心で煩悶する子供は、悲劇的存在である。

 極端から極端へと、揺れ動く気持ちを、子供はどうすることもできない。
ひきこもるか、家庭内暴力となるか、表れ方が違うだけで、問題は同根である。
子供が成長してくると、親は対応できなくなり、子供を責め突き放す。
しかし、子供も世間の目を内省化しているので、ますます自分が悪いと思ってしまう。

 父は、「お前の人生だ。野垂れ死にしようとなにしようと、お前の自由だ。ただし、俺たちには絶対に迷惑をかけるな。一人で生きて一人で死ね。娘だろうとなんだろうと関係ない。俺は、俺の人生をぶち壊すようなことをするやつを、絶対に許さない」と口癖のようにくり返す。
 母は、「純は甘えているのよ。自分の面倒も見られない。一人で生きていく覚悟すらない。それなのに見栄ばっかり張って偉そうなことを言って、ほんとに情けない人間ね」と硬い表情で言い切って横を向く。P282


 子供が小さな頃は、非力である。
そして、自己表現ができないから、子供は親に自分を訴えることができない。
しかし、子供が小さいうちは、子供を歪めてしまっていることを、親たちが判らないだけだ。
親が判らないだけで、15歳までで問題はすでに終わっている。
生理・精通があれば、もう人格はできあがっている。
15歳までで、子供の性格はできあがり、親子関係は確立されてしまっている。

 15歳で肉体的には成人になっている。
15歳を越えたら、親はもう対応できない。
自活できない未成年の子供は、親の呪縛から逃れようと、腕力に訴えてでももがき苦しむ。
かつてのように、国民の大多数が農業に従事していたら、あるべき姿を押しつけて、親が子供に圧力をかけることはなかった。

 小市民的な生活が可能になったから、ありのままの子供をそのまま認めずに、親が成長のレールを敷くようになった。
ほとんどの子供は、親のレールにのったが、とりわけ成長力のある子供が親と衝突した。
筆者ほどではなかったが、「ひきこもりと家族トラウマ」の書評でも書いたようにボクもそうだった。

 お父さんは、家庭にいるときより、会社にいるときのほうがはるかに幸せなんだ。だから、こんなに幸せそうに笑っているんだ。こんな顔をお父さんが家庭でしてくれていたら、たぶん私の家庭は、まったく違う家庭になっていただろう。それなのになぜお父さんは、家庭にいるとき、いつもあれほど不機嫌なんだろう。なぜ、私をはじめとする家族全員を、監視するような目で見つめているんだろう。お父さんはいったいどんな家庭を作りたかったんだろう。この家庭は、お父さんに幸せをもたらしているんだろうか。P326

 近代の父親は、お金を持ってきさえすれ、父親としての役割は免責されるのだ。
近代の核家族では、父親の役割は給料運搬機にすぎない。
貧しかった時代を生きた男性たちの、生き甲斐がお金で家族を養うことだった。
1960年代の日本中がそれを肯定していた。
性別役割分業から逸脱する人間を、たとえ子供であろうと、核家族社会は認めなかったのだ。

 物造りに邁進した日本は、お金以外の価値を家庭にもたらさなかった。
稼いでさえいれば、立派な社会人だった。
たくさん稼げば、なお立派な社会人だった。
たとえ家庭に笑いはなくとも、お金さえ稼いでいれば、立派な父親だった。
職場では外面良く笑っても、家庭では笑わなくてもすんだ。
男性たちは、職場の顔と家庭での顔を、無意識のうちに使い分けた。
子供は笑顔の父親が、なんと欲しかったことか。

 性別役割分業に基づいた核家族は、必然的に子供を抑圧する。
とりわけ我が国のように、支配階級がみえず上昇指向性の強い国では、親が子供に特別な生き方を強制しやすい。
子供は幸せになって欲しいと、愛情をもって叱咤激励する。
叱咤激励からは明るい笑い顔が消える。
子供の人格を無視して、ナイフの隠された愛情を突きつける。

 親の経済的な庇護のもとから、一刻もはやく脱出したかったと筆者は言う。
ボクも小学生の時から、父親からの独立だけを考えてきた。
父親と没交渉になったあと、ボクの仕事は、社会にある父親像と闘うことだった。
幸福な親子関係を壊したのは父親なのだ、と社会に認めさせることが、ずっとのしかかっていた。

 筆者が本書を書いたのも、自己正当化であると同時に、親子関係の確認だったはずである。
しかし、生まれたときから植え付けられた親子関係は、子供に決定的な軌跡を残す。
子供は愛情欠乏というトラウマに一生苦しむ。
血縁の親でなくても良い、誰か無私の愛情を注いでくれる人がいれば良い。
自分が愛されていると感じさせてくれる人がいれば良いのだ。

 小さな子供にとって、家族こそ安らぎの場である。
無条件に守ってくる人たち、それが家族である。
だから、誰もが家族のあった場所へと、望郷の念にかられるのだ。
帰りたくない家に育った子供は、故郷を持たない。
そして、一生にわたって愛情を探し続けなければならない。
ほんとうに可哀想な子供である。   (2009.2.5)
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参考:
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棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
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