著者の略歴−1940年、東京都生まれ。東京教育大学文学部卒業。出版社に勤め、百科事典・歴史辞典などの編集者を経て、文筆活動に入る。戦国・江戸時代の庶民の生活史・精神史を中心に、本名及びペンネーム淡野史良の名で執筆。主な著書に 『暮しに生きる日本のしきたり』(講談社)、『人間らしく生きるなら江戸庶民の知恵に学べ』(河出書房新社) などがある。 本書は、「密通」「レイプ」「売春」「心中」「女犯」「DV」など、いわば男女間の性にまつわる犯罪を取り上げている。 このうち、今日では「密通」「女犯」は犯罪にならない。 既婚者が浮気をしても、不倫と呼ばれるだけで、犯罪にはならない。 時代は変わるものだ。
筆者もうすうす感じているようだが、御定書=法律にあたるものが、そのまま適応されたわけではない。 まず、何よりも示談ですんだものがほとんどで、裁判にまで進んだものはごく少数である。 武士と町人では適用される法律も違えば、その後の処遇もまったく違う。 まさに身分制社会の典型例である。 また、農村部と都市部では人々の行動も違うし、農民間でも本百姓と水飲み百姓では違う。 それらをわずかな事例から、一律に論じていくのはきわめて危険である。 上記のような前提をおきつつも、江戸時代の刑罰は過酷だったと知れる。 たとえば四代将軍家網時代の1664年(寛文4)、髪結見習いの伊兵衛が主人で師匠でもある長兵衛の妻と密通に及んだとき、二人とも死罪であった。また五代将軍網吉時代の1688年(貞享5)4月、江戸木挽町に住む三左衛門の召使五兵衛は三左衛門の女房と密通したが、やはり死罪であって、P35 密通=不倫すると、ふつうは酒1升とかお金で、示談になった。 示談金が5両とか7両といった話もあるが、それは都市部での話であろう。 また、未婚者が親に隠れて結ばれると密通だとされたが、それも問題になるのは限られた例であろう。 若者宿のあった田舎では、若者たちのセックスは法律の対象外だったはずである。 しかし、問題になった限られた例は、過酷な処罰が下る。 当事者は両方とも、まず死刑である。 そして、親類縁者にまで、刑は及んでいった。 現代社会では国家権力の民事不介入が原則だし、刑罰はあくまで個人に対して科される。 昔は良かった式のことを言う人がいるが、個人間に国家が介入しなくなったことだけを見ても、現代社会のほうがはるかに自由だし、現代のほうが何倍も良い社会である。 ところで、農業社会の性観念と現代のそれは、明らかに違う。 農業社会は別名を封建社会といったから、男女差別がまかりとおっていた、と言われがちである。
建て前としての男女の扱いは、たしかに明らかな男女差別だった。 しかし、かかあ天下の江戸時代のこと、実際の男女は差別がまかり通っていたとはかぎらない。 京都西掘川の近江屋仁兵衛の妻いそは、同じ町の丹後屋五兵衝から密通を申しかけられたが、夫がいるからと断った。しかし再三言い寄られたので承知し、機会をみて密会することを約束した。ところが、「五兵衛がいそと密通し、妻にするそうだ」という噂が立ったため、いそは「これは大変だ、どういうことなのか」と五兵衛に確かめ、返事しだいでは脅してやろうと、7月21日、剃刀を懐に忍ばせて出かけた。 五兵衛に噂の出所などをたずねると、「俺たちが密通していてもかまわないだろう」と、まともに取り合わない。いそは逆上して前後もわきまえず、剃刀で五兵衛の陰茎を切り落とし、陰嚢も傷つけた。P65 いそは特別にガッツがある女性だったわけではないだろう。 江戸時代は農耕社会で、腕力が剥き出しになっていた。 そのため、女性たちも、この程度の暴力性をもっていたと考えるべきだ。 もっとも、この結果、いそは遠島刑になり、密通をもちかけた五兵衛は、中追放になっている。 今ではDVと言われる夫婦喧嘩も、現代とはちょっと違うのではないか。 男が殴ったかも知れないが、女も黙って殴られていたとは思えない。 もちろん男性のほうが腕力が強いから、女性が負けることが多かったかも知れないが、女性も充分に暴力的な抵抗をしただろう。 また、前近代では男女が好意をもつことと、セックスをすることはほとんど同時だったらしい。 江戸までと戦前とで、セックスに対して制度や意識が変わったのだ。 最近でこそ、婚前の女性たちもセックスを謳歌しているが、戦後は処女性が賞揚された。 そのために、セックスをタブー視する風潮を生んだが、江戸時代にはセックスをタブー視する空気はなかっただろう。 筆者は、女性は強姦されるがままだったように書いているが、現代と江戸ではセックス感が違うことを考慮すべきだ。 強姦は「女得心これなきに、押して不義」をすると言われたが、女性の同意がないことを良く表している。 だからこそ、女性の意に反したセックスの強要は、処刑の対象になった。 結婚が生活の手段だったから、資産家の結婚は当人たちの自由にはならなかった、それは当然である。 しかし、資産のない庶民には、男女結びつきは自由だったはずである。 結ばれない男女が、心中するのは愛情からではなかった。 西鶴は『諸艶大鑑』で、心中へと追い込まれるのはどんな男と女かを分析している。 「心中する男女は義理でもなく、情でもなく、金に行きづまって生きているのがつらくなり、進退きわまって、こんなことになるのだ。その証拠には情死をするのは端女郎ばかりである。男も女も名のある者は、恋が遂げられぬからといって、心中なんかしないものだ」(巻八「流れは何の因果経」)P149 現代的な目で見ると、筆者が言うように日常化していたDVとか、程遠い男女平等といったことになる。 しかし、違う時代を現代的な目で見るのは、きわめて危険である。 腕力が生産力の根底を支えた農耕社会では、建前上は男性優位にしなければ、社会秩序が維持できなかった。 しかし、それは建て前であって、本音の部分では、女性だって決して泣き寝入りしていたわけではない。 か弱い女性というイメージは、近代のものである。 前近代では女性も労働力だったから、女性もタフだった。 また、性欲だけがセックスをさせるわけではないから、売春の問題を、男性の性欲から考えているのは一面的である。 (2008.10.23)
参考: アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000 M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか」ハヤカワ文庫、1997 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 氏家幹人「大江戸残酷物語」洋泉社、2002 福田和彦「閨の睦言」現代書林、183 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999年 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 山村不二夫「性技 実践講座」河出文庫、1999 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 高月靖「南極1号伝説」バジリコ、2008 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 島田佳奈「人のオトコを奪る方法」大和文庫、2007 工藤美代子「快楽(けらく)」中公文庫、2006
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