匠雅音の家族についてのブックレビュー    精神科の待合室|斉藤茂太

精神科の待合室  お奨度:

著者:斉藤茂太(さいとう しげた) 中公文庫  1978年  ¥667−

著者の略歴−1916年(大正5年)斉藤茂吉の長男として東京に生れる。明治大学文芸 科、昭和医科大学卒。慶応義塾大学医学部で精神医学専攻。医学惇士。現在精神科斉藤病院理事長・名誉 院長、日本精神病院協会名誉会長、日本族行作家協会会長、アルコール健康医学協会会長、日本ペンクラブ理事。主な著書「茂 吉の体臭」岩波書店、「快妻物語」文芸春秋社、「精神公害」主婦と生活社、「精神科医三代」「飛行機とともに」「 回想の父茂吉母輝子」中央公論社、「ママさまは不思議の人」講談社
 単行本として1974年に出版された本だが、各文章はより以前の雑誌に初出している。
だから、すでに30年近く前に書かれたことになる。
驚くべきことに、現在のマスコミをにぎわす話題が、すでに登場している。
筆者に先見の明があったのか、時代はいくらも進んでいないと読むべきなのか。

当時すでに話題になっていたのが、親による子殺しである。

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「蒸発」から「子殺し」へ 親の子殺しが増えている。
 嬰児殺しの件数は警視庁の調べで、昭和45年に210件であったものが2年後の47年には40件増加の250件になっている。2年後の昭和49年には恐らくさらに増えていることだろう。
 しかも母親による子殺しが圧倒的に多いのだ。「蒸発」というのはいろいろの要素をふ くむであろうが、そこに「短絡性」が大きな役割を果すであろうことは想像にかたくない。
 その「短絡性」が、何の抵抗力ももたない子殺しに同様に役割を果すであろう。P93


といって、子殺しのパターンをあげる。

1.育児意志の放棄 2.父権・母権の放棄 3.邪魔殺人 4.片親蒸発による殺人 5.ノイローゼによるもの 6.精神の病気によるもの

そして、次のように言う。
もう一つ無視できないのは妊娠中絶の安易なくりかえしである。この安易な「道」になれた母親 には好むと好まざるとにかかわらず、子どもへの生命軽視観が植えつけられる。
 まだある。人工栄養の増加だ。おのずと、母と子のスキンシップは低下する。まだある。性の快楽と生殖をわ けて考えるという思想だ。望まれないでこの世に生れた子ができる。子を育てる覚悟と意志なしで子を生んでしまった母親がいるのだ。
 快楽優先、母よりも女を優先する母親、自己中心、短絡思考の母親、家庭活動よりも社会活動を優先する母親の増加。P100


筆者の心配する気持ちをよそに 子供より自分が大切だと、その後の女性運動が、たどった道は周知であろう。
子殺しに対しては、幼児虐待として認識されてきたが、
女性の自立は不可避のものであり、幼児虐待や子殺しも、女性と自立と平行現象である。
誰でも子供より自分が大切なのは当然である。
男性が子供より自分を優先している地平に、フェミニズムにせき立てられた女性も、いまやっと遅れて到達したにすぎない。

 子殺しを母親や父親の個人的な問題に還元してしまう発想から、抜け出さないかぎり問題は解決しない。
近代とは、自己中心の推進であり、自我の確立とは、自分中心主義に他ならない。
命が大切だといったときに、まず一番大切なのは自分の命である。
自分の命を充分に燃焼させることが、近代では求められている。 女性だけが母として子供と一体化されたのは、近代で生まれた女性差別の象徴である。
だから女性差別の克服には、母よりも女を優先する母親の肯定であり、快楽優先である。
それが文明をつくった。

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 近代文明を肯定せざるを得ないから、幼児虐待の予防策は社会全体で考えるべきなのだ。
早くも、登校拒否が話題になっている。

 カバンを持って家を出るが登校せず、盛り場や公園 をブラつき時間をみはからって帰宅するといういわゆる「怠学」というタイプが戦前にはあった。これとは違う型の登校拒否が目立ち始めたのは昭和35年頃からで、興味あること に、大学生のノイローゼの増加、休学理由のトップがノイローゼになった年月とほぼ一致するのである。
 その新しいタイプはこうだ。狭い意味での精神病ではない。家庭の経済状態も 悪くない。登校への義務感のようなものが本人にも家族にもある。それでも登 校できない。つまり行きたくても行けないのだ。そして「行けないこと」に憎悪を感じ強い自己嫌悪をもつ 。また成蹟のよかった子に多いが、成績はよくあるべきだという使命感のようなものを持っていて、要求水準が高 すぎて理想と現実がマッチしなくなり、それが登校拒否に通じるようになる。P199

 
 昭和35年つまり1960年頃から、登校拒否が話題になっている。
にもかかわらず、いまだに登校拒否で学校関係者は悩んでいる。
いや登校拒否は増えこそすれ、減ったということは聞いたことはない。
クラスに1人は登校拒否児がいるというのに、学校制度はゆるぎもしない。
登校拒否から不登校と呼び方を変えてみても、何の問題解決にもならない。
伝統的な学校の重要性は明らかに低下しているのに、
人々が有名校へむける目はあつくなるばかりである。
学校制度に代わる教育制度の整備がはやく望まれるが、
残念ながらわが国からは、新たな教育の誕生は無理のような気がする。

 筆者の両親は、有名人である。
筆者は特有の教育を受けてきたようだ。
つまり、両親から放置されるという教育である。
これは今では立派な幼児虐待である。
筆者の生家は精神病院であり、筆者のまわりには大勢の人たちがいた。
両親は筆者を直接には養育せず、家の人たちに子供を任せたのである。
だから何とか成人できた。

 かつては開放的な大家族がたくさんあり、いつも大勢の人が出入りしていた。
そんな家庭がたくさんあった。
大勢の人のなかでも、筆者を育ててくれたのは、
この世に2人と存在しないほどに甘やかしてくれたバアヤだった。
生んだ母親や血縁の両親がいなくても、子供は立派に育つ。
筆者も立派な精神科医になった。
ちなみに弟である北杜夫氏も、高名な作家になったことは周知であろう。

 本書を読んでいると、精神分析とはきわめて保守的なものだとわかる。
精神科医は正常ではない人を治療の対象にするのだが、なにが正常かは時の社会が決めるものである。
精神科医は、時代が決めた正常に従って、人間の分類をおこなっている。
時代を追いかける精神分析が、革新的になりようがない。
たとえば、同性愛は精神異常の一種とされて、治療の対象だった。
1952年以降、薬の登場により、精神病の治療は革命的に変わった。
それを筆者は歓迎しながら、別種の心配もしている。
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参考:
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
松本彩子「ピルはなぜ歓迎されないのか」勁草書房、2005
榎美沙子「ピル」カルチャー出版社、1973
ローリー・B.アンドルーズ「ヒト・クローン無法地帯」紀伊国屋書店、2000
沢山美果子「出産と身体の近世」勁草書房、1998
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史」勁草書房、1994
ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房、1999
小浜逸郎「「弱者」とは誰か」PHP研究所、1999
櫻田淳「弱者救済の幻影」春秋社、2002
松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、1981
ハンス・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
小沢牧子「「心の専門家」はいらない」洋泉社、2002
佐藤早苗「アルツハイマーを知るために」新潮文庫 2007年
多田富雄「寡黙なる巨人」集英社、2007
熊篠慶彦「たった5センチのハードル」ワニブックス、2001
正村公宏「ダウン症の子をもって」新潮文庫、2001 
高柳泰世「つくられた障害「色盲」」朝日文庫、2002
加藤康昭「日本盲人社会研究」未来社、1974
北島行徳「無敵のハンディキャップ」文春文庫、1997
アリス・ミラー「闇からの目覚め」新曜社、2004
御木達哉「うつ病の妻と共に」文春文庫、2007

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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