著者の略歴−イギリスはデーラム州の小さな鉱山町に生まれ、デーラム大学で学士号と修士号を取得後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスから博士号を授与されている。現在はバーミンガム大学の社会学の教授で、著書には『新しい写真』1980、『情報テクノロジー:ラッダイト分析』ケヴィン・ロビンスと共著、1986、『ポストモダンの大学?』アンソニー・スミスと共編著、『テクノカルチャーの時代』ケヴィン・ロビンスと共著、などがある。 情報社会とは何か、情報社会が何を意味しているのか、そうした問題意識に導かれて、本書は執筆された。 筆者の立場は、情報社会は存在しない、あるのは情報が多くなった資本主義にすぎない、というものである。 その論証のために、つぎの人たちを取り上げる。
新しい社会が訪れた、とする一翼の論者には、 「脱工業社会」(例:ダニエル・ベルやその後継者) 「ポストモダニズム」(例:ジャン・ボードリヤールやマーク・ボスター) 「柔軟な専門化」(例:マイケル・ピオリ&チャールズ・セーブル、ラリー・ヒルシユホーン) 「発展の情報的様式」(例‥マヌエル・カステル) 連続性を強調する論者には、 「ネオ・マルキシズム」(例:ハーバート・シラー) 「レギュラシオン理論」(例:シェル・アデリエッタ、アラン・リピエッツ) 「柔軟な蓄積」(例:デヴィツド・ハーヴェイ) 「国民国家と暴力」(例:アンソニー・ギデンズ) 「公共圏」(例:ユルゲン・ハーバーマス、ニコラス・ガーナム)P14 この括り方には、大胆さを禁じ得ないが、それは問わないことにしよう。 もちろん、筆者が支持するのは、後者たちである。 まず筆者は、情報もしくは情報社会という言葉が、定義があいまいで様々な意味で使われているという。 各人の定義がしっかりしていれば、各人各様であっても許されるのではないか。 私は、農耕社会→工業社会→情報社会といった意味で使っている。 そして、<知識といった無形のものが、有償で取り引きされる社会>と情報社会を定義する。 だから、情報社会といっても、情報社会には情報だけしかないわけではない。 工業社会であっても、ものを食べないと生きていけないのだから、農業が存続するのは当然である。 農耕社会にも情報は存在した。 しかし社会が、情報をも独立した価値と認め、しかもそのウエイトがますます大きくなった。 それが情報社会でというだけで、工業社会とはまったく別の社会になったわけではない。 むしろ農耕社会の上に工業社会がのっており、工業社会の上に情報社会がのっている、といったほうが良い。
情報社会という見方をしたほうが、今日の社会がよく理解できる、と言うに過ぎない。 だから情報社会がバラ色だと言っているわけではない。 工業社会の入り口で、スラムが発生したように,情報社会の入り口でも不平等が生まれる。 階級社会に生まれた「情報革命」は、既存の不平等の徴であると同時に、さらにこの関係を悪化させることだろう。経済や教育の面で特権的な階級の人々は、豊かな情報資源(オンラインデータベースや、高度なコンピュータ)を活用してますます有利になり、階級の下位にいる人々は、シラーが「ゴミ情報」(気晴らし、娯楽、ゴシップ等)と呼ぶ泥沼に引き込まれてゆく。かくして「情報格差」は拡大する。P145 これは筆者の言うとおりであるが、だからこそ社会的な安全ネットを張ることが必要である。 本書は情報社会の悪を取り上げることによって、むしろ情報社会への対応を迫っているかのようだ。 つまり、情報社会とはこうだと言いながら、結論部分でのみそれを否定しているように感じる。 情報社会という言葉を取り上げることが、すでに情報社会を認めているように思う。 本書の目的は、この20世紀末における、情報の重要性とやらを検証することにあった。第2千年紀の淵に立つ今、なぜ、そして、いかに、「情報」がわれわれの時代を特徴づけるものだと受け取られるようになったかを、問うてきたのである。「情報は重要だ、現代では情報の量は空前であるだけでなく、ビジネス、余暇、政府などあらゆる分野で情報が中心的、戦略的に緊要な役割を担っている」とする思想家たちの合意に、言及するところから始めた。 だがこの合意は、私の検証によれば、間違っている。情報の量が増大し、今も増えつつあることは皆が認めるだろうが、それ以外の部分は異論の余地が十分ある。P326 と結論づける筆者だが、本文での展開は情報社会論者そのものである。 工業社会の入り口で、文盲退治が行われたように、情報社会の入り口ではコンピュータ・ノンリテラシーが克服されなければならない。 言葉が思考を助ける道具であるように、コンピュータも思考を助ける道具である。 そして、今後コンピュータを使わない思考が、その位置を下げるとすれば、コンピュータ・リテラシーは是非とも体得せねばならない。 それは社会が活力を維持するための、政府が負わされた責務である。
参考: 木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009 アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003 三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005 クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994 ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000 柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001 山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002 ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005 網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993 R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000 クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994 ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001 谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001) シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001 エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999 村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986 吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982 大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985 ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001 富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001 大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998 東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000 エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991 リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982 柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001 江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967 森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001 エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998 オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995 小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995 佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009 佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009 S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980 北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003 藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007 成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 J・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009 杉田俊介氏「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005年 塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008年 山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006年 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
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