匠雅音の家族についてのブックレビュー     知識人とは何か|エドワード・W・サイード

知識人とは何か お奨度:

著者:エドワード・W・サイード  平凡社、1998年  ¥840−

著者の略歴−1935年イギリス委任統治期のパレステチナは、イエルサレムに生まれたアラブ・パレスティナ人。米 国市民。カイロのヴィクトリア・カレッジで教育を受けたあと渡米し、プリンストン大学で文学を専攻し、ハーヴァ ード大学で博士を取得した。1970年以降、コロンビア大学の英文学・比較文学教授 邦訳された著書に>「始まりの現象−意図と方法」(原著、法政大学出版局1992)、「オリエンタリズム」 (原著1978、平凡社1986/1993)、「イスラム報道−ニュースはいかにつくられるか」(原著1981、みすず書 房、1986)、「世界、テキスト、批評家」(原著1983、法政大学出版局、1995)、「パレスチナとは何か」(原 著1986、岩波書店1995)、「音楽のエラボレーション」(原著1991、みすず書房、1995)などがある。
 本書は、1993年に行われたBBCラジオ放送を収録したものである。
パレスチナ生まれということは、現在もっとも政治的な対決が先鋭化している場所で、筆者は生まれたことを意味する。
そして、今ではアメリカに住んでいる。

 この事実が、ほとんど本書の立脚点を決定している。
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知識人は、博学者とは違う。
知識人とは、高等遊民であるのか。
おそらくそうだろう。
何も生産活動には従事せず、それでいながら名声を伴った職業についている。
いわゆる有閑階級の一員だろう。
だから、近代以前には知識人というものは存在せず、有閑階級に属するすべての男性が知識人でもあった。

 読み書きする能力を支配者に独占されていた以上、
庶民が知識人であり得るはずがなかった。
もちろん庶民にも、生きる知恵に優れた人間はいた。
しかし、それは自然と添いとげるものであって、
自然に働きかけるものではない。
知識人とは知が独立したものとして、内省化されていなければならないのだ。近代以降、庶民も識字能力をもつようになり、政治の世界は庶民にも開放された。
ここで知識は有閑階級に独占されたものから、全員に解放されたが、
同時に知識がよって立つ階級も崩壊した。
有閑階級が知識人を意味したが、有閑階級と庶民の世界から、大衆支配の社会へと転じた。
そこでは知識をこととする人間集団は、
大衆に支えられなければ生きる場所がなくなった。
こうした状況では、知識人は具体的な階層としては存在しえない。
すでに精神のありようとしてしか、知識人は存在しようがないのである。筆者は、アントニオ・グラムシやジュリアン・バンダを引用しつつ、知識人の使命を次のように述べる。

 知識人の表象とは、懐疑的な意識に根ざし、たえず合理的な探究と道徳的判断へと 向かう活動そのものである。またそうであるがゆえに、知識人たらんとする 個人は、人びとの記憶に刻まれたり、危険な目にあったりするわけである。言葉をいかに効果的に 使うかを学ぶこと、言葉を使って介入すべき頃あいを知っていること。これが、知識人の行動のふたつのとりわけ重要な特徴である。

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といっているが、こうした使命からはきわめて過酷な状況が現出される。
知識人は必然的に家庭になじまないばかりか、月並みな日常にもなじまないものとなる。
それは常に少数派にいることを意味し、国家や伝統から離れることをも意味している。
世界中で見れば、貧乏なイスラムは少数派で抑圧されている。
しかし、イスラム国家のなかでは、イスラムは多数派である。
そして、わが国の戦前に言及して、次のように言う。
 
 近代の知識人の歴史のなかで、もっとも恥ずべきエピソードのひとつが第二次 世界大戦中に起こる。それはジョン・ダワーが述べているように、 日本とアメリカの知識人が、攻撃的に、そして最後にはなりふりかまわず、 民族的・人種的中傷合戦に走ったことである。戦後になると、マサオ・ミヨシによれば 、日本の知識人の大半は、自分たちの新しい使命の本質を、天皇制イデオロギー(あるいは 国体イデオロギー)の解体だけではなく、西欧と肩をならべられるリベラルで個人主義的な「主体性」の構築であると自覚するようになる(以下省略) 戦前の知識人が、体制翼賛的であったことは当然の事実としても、戦後の知識人(そう呼べるかどうか疑わしいが)もまた、体制翼賛的ではなかったか。もちろん、そのイデオロギーは正反対だったが、イデオロギーのあり方や体制との距離の取り方は、戦前とまったく同じだった。自己の信を確立するのではなしに、(反)体制に従ったという意味では,戦後も変わらない。

 知識人とは、自立的に自己を見つめる人間であり、永遠に呪われた亡命者でもある。
明治以降はもちろん敗戦以降も、亡命者を生みださなかった思想状況を見れば、
わが国には、真の知識人が存在したかどうか疑わしい。
そして、大衆社会に巻き込まれたわが国は、アメリカと同様の現象が発生した。

(ラッセル・ジャコピーの)『最後の知識人』と銘うたれた その本が提唱した反駁しがたい論旨は、ひとことでいえば、アメリカ合衆国では「大学や学界と関係を もたない非アカデミックな知識人」は完全に消滅したということだった。非アカデミックな知識人なきあと、その後釜 に座ったのは、専門用語を駆使してまくしたてるだけの小市民的な大学教員であって、彼らに対して社会そのものは、さして関心をはらわなくなった。

 大学の教員は知識人ではなく、大衆である所以である。
アマチュアであれという筆者の知識人論には、ほぼ全面的に賛成する。
そして、困難であることは充分に承知しているが、筆者が言うような知識人たろうと、
私はしているつもりだし、今後もそうありたいと思っている。
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参考:
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ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009
アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003
三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005
クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994
ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000
柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001
山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002
ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005
網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993
R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994

ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001
エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999
村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982
大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985
ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001
富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001
大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998
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リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982
柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001
江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967
森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001
エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998  
オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995
小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995
佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009
佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003
藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007
成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
J ・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009


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