著者の略歴− 本書は学生運動の高揚期に、反乱する学生たちによって大歓迎された。 そして、共同幻想という言葉は、一世を風靡した。 今では認知された言葉として、多くの人が使っている。 筆者を真似た物書きがたくさん排出した。 本書は国家の原点というか、発生を探るものとして書かれ、その後の筆者の根幹をなす著書になった。
それに<約束された価値>と名付けていた。 その後、大家族→核家族→単家族という論を展開したが、それははからずも著者の言う、共同幻想、対幻想、個的な幻想と、良く似た構造のものとなった。 筆者のいう共同幻想とは、次のように定義される。 共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。<種族の父>も<種 族の母>(Stamm-Mutter)も<トーテム>も、たんなる<習俗>や<神話>も、<宗教> や<法>や<家>とおなじように共同幻想のある表われ方であるということができよう。人間はしば しばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされ てさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にと って共同幻想は個体の幻想と逆立ちする構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性とし ての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。P28 共同幻想なる概念をもって、筆者は実体化した観念=法や国家までを、切開しようとする。 まずフロイトを引用しながら、個人的な性を心の世界、経験の世界、行為のもたらす結果を 混同している、とその限界を解き、その混同は心、経験、制度へと引きのばされて、矛盾を拡大するという。 制度の世界を<共同なる幻想>の世界と考えるが、人間の幻想の世界は、それが共同性として存在するかぎりは、個々の人間の<心理的>世界と逆立してしまうのである。P36 だから、自己なる幻想、対なる幻想、共同なる幻想と、異なった次元の世界を前提にする必要がある。 そして、黙約は習俗をつくり、禁制は幻想の権力をつくるのだ、という。 ここから筆者は、神話<古事記>と民俗譚<遠野物語>を探ることによって、論証を深めていく。 狭くそして強い村落共同体の内部における関係意識の問題である。共同性の意識といいか えてもよい。村落の内部におこっている事情は、嫁と姑のいさかいから、他人の 家のかまどの奥の問題まで村民にとっては自己を知るように知られている。そういうところでは、こ この村民の幻想は共同性としてしか疎外されない。個々の幻想は共同性の幻想に<憑く>の である。一般的にいって、はっきりと確定された共同幻想(たとえば法)は、個々の幻想と逆立する。P67 フロイトにならっていえば、最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。 男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではありえない。 母性にたいする回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの<男性>を逃れるために女性に向うことはありえないだろう。 <女性>が最初の<性>的な拘束から逃れようとするとき、もし男性以外 のものを対象として措定するとすれば、その志向対象はどのような水準と位相になければならないだろうか? このばあい<他者>はまず対象から排除される。<他者>と いうのは<性>的な対象としては男性である他の個体か、女性である他の個体のほかにあり えない。するとこのような排除のあとでなお残される対象は、自己幻想であるか、共同幻想であるほかはないは ずである。ここまできてわたしなりに<女性>を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで< 性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ、と。P94 こうして筆者は、個人の観念がいかに共同体の観念と乖離し、逆立していくかを展開する。 社会は男女でしか構成されていなから、個人があって、男女の対があって、それ以外の集団がある、という構造は理解しやすい。 そして、男女の対が家族へとつながり、自己幻想に先行するのは家族であるという。 しかし、筆者は男女の区別をいうなかで、いくつか疑問の残ることを言う。 どんなに多数の男性と性関係を想定したとしても、ひとりの女性はじぶんの産み落とした子供の父親が誰であるか確実に知っているはずだ。P151 ここから母系制を引きだしてくるのだが、女性は子供の父を知っているだろうか。 私は知りえないと思う。 本書では、父親を知りうる根拠が、どこにも明示されていない。 自分の排卵を知る女性は稀にいるらしいが、受精の瞬間を体感できるとは思えない。 もし、女性が生理的に子供の父親を知りえたら、男性はそのメカニズムを無視しえない。 女性と子供の結びつきはずっと強いものとして、歴史は形成されたはずである。 女性はそれを認知できないから、男性支配の社会になったのだろう。
生理的なメカニズムは、意識を介在させないから自律的である。 女性は子供を生む存在であることが、時間の流れを意識させ、女性が子供を生むことに時間の根源がある、と筆者はいう。 穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が妊娠、出産し、人間が成長することの時間性に違いを知ったとき、部族の共同幻想と対幻想の違いが成立するらしい。 人間の<対>幻想に固有な時間性が自覚されるようになったとき、すくなく ともかれらは<世代>という概念を手に入れた。親と子の相姦がタブー化されたのはそれからである。P187 何となく本当のように読めるが、親子間の相姦がタブーとされているのは、人間に限らない。 サルも近親相姦をタブーとしているから、上記のようにいえるのだろうか。 サルも文化をもっているのだから、親子間で文化を伝達させれば、相姦をタブーとせざるをえない。 種族保存より個体維持のほうが強いから、種族にかかわる文化とは虚弱なものでしかない。 しかし、それは個体が先行することを意味しはしない。 母系制から母権制を云々する部分は、多いに疑問が残る。 私は親子間の相姦は、人間が種として誕生した瞬間からもっていたと思う。 つまり、筆者の言葉にしたがえば、個的な幻想が先行するのではなく、共同幻想が先行するはずである。 時代は共同性から個的なものへと流れるのであって、個的なものから共同性が誕生するのではない。 人間を1人という単位で考えることが、近代の呪縛にからめ取られているのではないだろうか。 古事記を引用・解読しながら、<兄弟>と<姉妹>の相姦タブーを持ちだして、国家の発生を論証するあたりは、実に興味深い。 筆者は動物と人間の違いを、生理的な部分に求めることはしない。 観念を獲得するかどうか、その一点に人間と動物の違いを集約させており、いかにも思弁的であり哲学的である。 だから筆者は、サルと人間の連続性を無視する。 サルと人間をまったく別のもの、と設定するのは理解できなくはないが、生理的な部分が規定するものもあるように思うのだが。 観念の自立を考察する執念には共感する。 共同幻想が、個体の幻想と逆立ちする構造をもつというのは、現実と観念が切れるということだろう。 それはよく理解できるが、意識と生理を同じ次元で語る混同が、共同幻想論にはあるように思う。 本書では、フロイトがたくさん引用されているが、フロイトは根底的に疑う必要がある。 安易なフロイトへの依拠はきわめて危険である。 しかし、本書が私に与えた影響は非常に大きく、その後の私の論考に多いに役に立った。 私にとって、本質は関係として考える必要がある、という視点を教えられたことが、本書の最大の功績だったように思う。 現在では好々爺になってしまった筆者だが、わが国では数少ない本物の思想家であろう。
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