著者の略歴−ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を取得後、学術誌等に数々の論文を執筆する傍ら、生物医学関係のコンサルタント会社、バイオテクスト社を創立。 暴力が話題になって久しい。 街での殺人や家庭内暴力が、毎日のように新聞紙上をにぎわす。 本書は、暴力をふるう人間を、生物学的に脳構造から解明しようとしたものである。 ところで、暴力を論じる場合には、必ず確認しておかなければならないことがある。 現代でこそ、暴力は否定されるが、歴史貫通的には必ずしも否定されなかったということだ。
この時代の農業は、自給自足が原則で、日々の生活に必要な物は、ほとんど自分たちの手で作りだした。 針とか塩とか、自製できないわずかの物を、外部から購った。 それに対して、今日の我々の家庭では、物を生産することは絶えてない。 現代の家庭は子供の生産以外、何の生産活動も行っておらず、全てを外部から購入する。 農業に勤しんでいた人たちは、生活が自分たちの村内で完結しており、外部から独立して生活ができた。 村を包囲されても、喰うには困らなかった。 しかし、今日ではスーパーやコンビニが閉店したら、明日からの生活に困る。 街は孤立して生きることはできない。 そして、現金がなければ、今日の生活はたちいかない。 こうした事情が意味することは、かつての人々と我々との間に、暴力に関して根本的な違いが生じていることである。 近代以前の支配者は、武士や貴族だった。 当時の庶民である農民は、村単位で独自に生活できたとすれば、支配の手段は何だったのだろうか。 それは武力、いいかえると暴力だった。 年貢米を供出させる背景には、刀を持った武士がいるから、 農民たちは税金を払わざるを得なかった。 もちろん、治水・灌漑に支配者が尽力もしたから、その負担としての税金でもあったが、 武力=暴力によって守られる見返りとして、年貢米を支払った。 今日では、支配に暴力は不要である。 会社を倒産させたり、給料の支払いを止めれば、庶民はたちまち路頭に迷う。 自給自足の生活ではないので、現金収入を断たれたら、現代人は生活できない。 現代社会での支配手段は、暴力ではなく金銭である。 もちろん、国家は警察や軍隊といった暴力をもってはいるが、 武力をもって直接的に支配することは、今日では現実的ではない。 今日、支配には剥き出しの暴力が不要になった。 ここに時代を解く鍵がある。 直接的な武力による支配は、もはや現実的ではない。 だから、暴力を否定的にみても、社会を維持できる。 そのために、暴力を嫌悪してもすむ社会ができた。 支配に暴力が必要な社会では、武道の精進というかたちで暴力の涵養こそ叫ばれても、 暴力の撲滅が主張されることはない。 暴力が否定されるもう一つの理由は、暴力を担うものが、 肉体から機械に置き換わったことだ。 武士たちは暴力の担い手であったが、暴力を担うために、自分の体を鍛える必要があった。 しかし、今日の暴力は、小は拳銃から大は原爆まで、その実現に肉体的な力を不要としている。 非力な肉体でも、大きな破壊力を行使できる。 肉体的な力が暴力に不要になったので、腕力に劣る女性も支配者になることが可能になった。 以上の事情があるので、暴力が個人的な問題に閉じこめられて、 その限りで問題視すれば済むようになった。 本書も、暴力を個人的なものと捉える。 個人の脳構造が、暴力を振るわせるというわけである。 現代にあっては、こうした形で暴力が取り上げられるのはごく自然だし、 おそらく今後は暴力を個人の問題として、考える傾向がより強まるだろう。
社会が暴力によって支配されていたから、暴力を否定することはできなかった。 暴力を否定すると、支配構造が崩壊した。 暴力の意義が低下しつつあるとはいえ、 現代でも支配の根底に暴力があることは、まぎれもない事実である。 しかし、剥き出しの暴力は否定されてしまった。 チャールズ・ダーウィンが打ち出した最も危険な思想は、よく知られた進化論でも自然淘汰理論でもなく、人類はプロセスによって改造できるという示唆だった。直接的繰作を公然と提案したわけではないが、下層階級に子どもが多いことの進化論的な意味を懸念した彼は、社会の模範的な人々にもっとたくさんの子どもをもってもらうよううながしたほうがよろしいのではないか、と慎重に述べた。P19 近代に入る頃、人間は神様に創られたのではなく、 人間が神様を創ったのだという考えが誕生した。 この考えは、人類が初めて生んだもので、近代以前には人間を改良しようなど誰も考えなかった。 自然界には、人間の暴力を越えた力が存在した。 そして、どんな生き物も自分の身を守るためには、多かれ少なかれ攻撃性=破壊力をもっている。 攻撃性を完全に否定したら、種は滅びる。 人間も攻撃性をもっているのが自然であり、 男性により攻撃性が強く表れるとしても、女性にも攻撃性がある。 しかし、社会秩序を維持する上で、攻撃性=暴力は不要になったので、 暴力性に劣る女性も男性と対等になった。 喧嘩に負けることは恥だったが、いまや誰も喧嘩をしようとはしない。 人は悪人には生まれない。だが、男性に生まれつくことは暴力ヘの第l歩のようにみえる。1996年の連邦政府捜査局の統計によれば、この年に殺人罪で逮捕された18、108人のうち90パーセントは男性だった。反社会性人格障害(神経警報システムが不調で、良心が永久休暇をとっているのが特徴の暴力のかたち)は、男性のほうが女性の3倍も多い。強姦犯、ストーカー、大量殺人者も圧倒的に男性だ。最も恐れられる暴力犯である性的連続殺人者は、法医学専門家に言わせれば例外なく男性である。P180 腕力が平和的に発揮されれば、肉体労働であり、破壊的に発揮されれば、暴力である。 労働がすべて肉体に負っていた時代、 屈強な男性の肉体労働が、生産力の主要な部分を支えた。 長かった農耕社会に、腕力に秀でた男性が主になって、社会の生産力を支えたのである。 女性より腕力に秀でた男性が、暴力的であることはまったく自然のことである。 女性は男性よりも小さな生産力を担い、不足分は種族保存を担当することで、 男性に拮抗する地位を確保した。 しかし、女性にとっても種族保存より、自分の口をまかなう個体維持が優先する。 だから、女性は社会的な劣位に甘んじたのである。 労働から肉体的な力が、今後ますます不要となっていく。 とすれば、暴力の扱いは、本書が結論づける方向へ向かうだろう。 暴力とは、許容される攻撃性とされない攻撃性との境界を踏み越えるということだ。この規則違反を防止しつつ、真の緊急事態への強力な反応を保持したければ、神経システムを損傷や破壊的なレベルのストレス、麻薬、孤立、暴力被害から守らなければならない。つねに警戒しなくてもすむ安全な環境、ある程度のリスクをとれるような柔軟性のある環境、混乱を避けるだけのしっかりした枠組みのある社会をぜひともつくりだす必要がある。そして、生理学と環境とが共謀してコントロールを破壊しょうとしたとさには、手遅れにならないうちに自己コントロールをとりもどす迅速で断固とした行動が必要である。P320 暴力の全面的な否定は、人間の自然性の否定に繋がりかねない。 そして、暴力を完全にコントロールしたとき、人間はより幸福になっているか、 いささか疑問が残る。 また暴力が不要になっていく社会が、本当に健全かどうかは問うまい。 しかし、日々を生きる上で、個人が身の安全を犯されることは、誰も歓迎しない。 その意味では本書の結論に同意する。 肉体的な力が、破壊力として発揮される前に、平和的に解消すべきであろう。 上記の結論には賛成しつつ、近代に達していない社会では、未だに暴力がかつてと同じ意味を持っていることを忘れてはなるまい。 (2004.7.16)
参考: アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 斉藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001 大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003 ジョルジュ・ヴィガレロ「強姦の歴史」作品社、1999 R・ランガム他「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 斉藤学「男の勘ちがい」毎日新聞社、2004 ジェド・ダイアモンド「男の更年期」新潮社、2002 ジョージ・L・モッセ「男のイメージ」作品社、2005 北尾トロ「男の隠れ家を持ってみた」新潮文庫、2008 小林信彦「<後期高齢者>の生活と意見」文春文庫、2008 橋本治「これも男の生きる道」ちくま書房、2000 鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000 関川夏央「中年シングル生活」講談社、2001 福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書、2008 M・ポナール、M・シューマン「ペニスの文化史」作品社、2001 ヤコブ ラズ「ヤクザの文化人類学」岩波書店、1996 エリック・ゼムール「女になりたがる男たち」新潮新書、2008 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 蔦森 樹「男でもなく女でもなく」勁草書房、1993 小林敏明「父と子の思想」ちくま新書、2009 R・ランガズ、D・ピーターソン「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
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