匠雅音の家族についてのブックレビュー    できそこないの男たち|福岡伸一

できそこないの男たち お奨度:

著者:福岡伸一(ふくおか しんいち) 2008年 光文社新書  ¥820−

 著者の略歴−1959年東京都生まれ。京都大学卒業。ロックフェラー大学およびハーバード大学研究員、京都大学助教授を経て、青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授。専攻は分子生物学.著書に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス、講談社出版文化賞科学出版賞受賞)、『ロハスの思考』(木楽舎ソトコト新書)、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、サントリー学芸昔受賞)、『生命と食』(岩波ブックレット)などがある。2006年、第1回科学ジャーナリスト賞受賞。
 男女の肉体的な違いを、DNAのレベルまでおりて論じている。
男のあばら骨から、女が作られたのではない。
人間として発達すると女になるところを、途中で作り替えられたのが男であるという。
これは筆者のいう通りであろう。

TAKUMI アマゾンで購入

 筆者も先天性の尿道下裂の例に引いているが、これは女の身体が標準仕様で、途中でコース転換したのが男だから、尿道下裂が生じてしまうのだろう。
イヴはアダムから創られたのではなく、イヴの変形したものがアダムだという。
男の短い寿命、不安定な精神状態などを考えれば、生物学的にはまったく納得できる話である。

 これまで見てきたとおり、生物の基本仕様としての女性を無理やり作りかえたものが男であり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合がある。つまり生物学的には、男は女のできそこないだといってよい。だから男は、寿命が短く、病気にかかりやすく、精神的にも弱い。しかし、できそこないでもよかったのである。所期の用途を果たす点においては。必要な時期に、縦糸で紡がれてきた女系の遺伝子を混合するための横糸。遺伝子の使い走りとしての用途である。
 使い走りは使い走りとしての役目を一心に果たした。わき目もふらずに。それはアリマキの時代から、ヒトがヒトとなりアフリカを後にしたとき、ユーラシア大陸をはじめすべての大陸にまで及んだとき、そしてそれ以降いままで全く凌わっていない。使い走りはずっとずっと女性に尽くしてきた。使い走りだけではない。女性の命ずるまま、命ずるものすべてを運んで来ようとした。P276


 ほとんど最後に書かれているこの文章が、筆者の思いであることは間違いであろう。
しかし、そう言うには、論証の途中に脱線というか、回り道が多すぎるのである。
そのため、筆者の本心は別のところにあった、と思えるのだ。


広告
 本書がめざすのは、しかし、男女の肉体的な違いを、DNAのレベルで証明することではないだろう。
筆者は、天才たちが鎬を削る生命科学の最先端の話を、おもしろおかしく書きたかったようだ。
デイビッド・ペイジとグッドフェローとのZFY遺伝子とSRY遺伝子の争いなど、そういった意味では、面白い読み物になっている。 

 科学の最先端を争う世界では、第一発見者にしか名誉が与えられない。
たった1週間遅くても、2番目の発見者には何の名誉もない。
それは生命科学でも同様であり、筆者は今でこそ日本の大学にくすぶっているが、若い時代にアメリカのポスドク体験で、それを見てきた。         

 ボスドクとは、ポストドクトラルフェローの略で、博士号を取得したての研究者の卵が修業を行う研究ポジションである。一方、独立研究者から見ればボスドクは、傭兵、使い捨ての労働力にすぎない。ボスの言うことを聞き、長時間、低賃金労働に耐えられることがボスドクの条件だ。P13

 筆者は27歳の頃、ジョージ・シーリー博士のホスドクになって、最先端科学のすさまじさを垣間見てきた。
そのころに体験した話を、読み物にまとめたのが本書である。
DNAも日常語になった現在だが、最先端というのは、とにかく見えないのだ。

 目の前に現象があらわれても、それが何なのだか判らない。
人はそれが何だか説明されて、はじめてそれが何だか理解する。
筆者が次のようにいう言葉には、リアリティがある。

 私は忘れかけていたことを自戒の意味をもって思い出す。私が膵臓の細胞を見ることができるのは、それがどのように見えるかをすでに知っているからなのだ。どの輪郭が細胞一つ分の区画であるのか、その外周線を頭の中に持っているからだ。その細胞の向きがどちらを向いているのかを、あるいは細胞の内部に見える丸い粒子がDNAを保持している核であることを知っているからである。
 かつて私もまた、初めて顕微鏡を覗いたときは、美しい光景ではあるものの、そこに広がっている何ものかを、形として見ることも、名づけることもできなかった。私は、途切れ途切れの弱い線をしか描くことができなかったはずなのだ。つまり、私たちは知っているものしか見ることができない。P55

 おそらく生物学的には、男は女のできそこないだろう。
また、男女は生物的に異なっている。
しかし、生物学的に男ができそこないであっても、女に対して威張っていたのも事実なのだ。
また、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は、いまでも正しい。

 筆者のいう生物学なかでもDNAのレベルと、社会性のレベルはまったく位相が違うのだ。
この位相の違いにメスを入れたのが、フェミニズムだったのである。
つまり、物的な世界と、事的な世界を、決然と分けたことこそ情報社会の成果だったのである。
事的世界が自立したがゆえに、男女が社会的に平等になったのだ。  (2009.1.29)
広告
 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
斉藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
ジョルジュ・ヴィガレロ「強姦の歴史」作品社、1999
R・ランガム他「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
斉藤学「男の勘ちがい」毎日新聞社、2004
ジェド・ダイアモンド「男の更年期」新潮社、2002
ジョージ・L・モッセ「男のイメージ」作品社、2005
北尾トロ「男の隠れ家を持ってみた」新潮文庫、2008
小林信彦「<後期高齢者>の生活と意見」文春文庫、2008
橋本治「これも男の生きる道」ちくま書房、2000
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
関川夏央「中年シングル生活」講談社、2001
福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書、2008
M・ポナール、M・シューマン「ペニスの文化史」作品社、2001
ヤコブ ラズ「ヤクザの文化人類学」岩波書店、1996
エリック・ゼムール「女になりたがる男たち」新潮新書、2008
橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998
蔦森 樹「男でもなく女でもなく」勁草書房、1993
小林敏明「父と子の思想」ちくま新書、2009

H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう
松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、 1981


「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる