匠雅音の家族についてのブックレビュー     フェミの嫌われ方|北原みのり

フェミの嫌われ方 お奨度:

著者:北原みのり(きたはら みのり)−新水社 2000年  ¥1400−

著者の略歴− 1970年神奈川県生まれ。津田塾大学卒業。オンナのセックスグッズストア「ラブピースクラブ」代表。インティーズマガジン「パイプガールズ」編集長。著書「はちみつバイブレーション」河出書房新社、「男はときどきいればいい」祥伝社など。新しいセックスイメージの提案を呼びかけている。 
URL:http://www.lovepiececlub.com/index.html
 1970年生まれの筆者は、
ウーマンリブがフェミニズムへと転じる時代を、当然のことながら経験していない。
女性であることの違和感を、後追い的に勉強してきたのだろう。
それはもちろん仕方のないことだが、その教材になったフェミニズムは、罪なことをしてしまったと思う。
本書には、フェミニズムの混沌が、そのまま凝縮されている。
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 性別という本人の意思では、いかんともしようのない理由によって、差別的な対応がなれること、それは断じて許してはいけない。
今では、おそらく多くの人が、そう考えているはずである。
しかし、その中身となると、その定義は各人各様の理解になってしまい、簡単に賛成が得られない。

 性別の定義は、おおむね簡単である。
性別とは男性と女性である。
性転換といった話が好きな人もいるが、
男性から女性へもしくは女性から男性といった転換であり、
男性から猿性へといった転換はない。
だから、男性と女性で話をすすめていいだろう。
問題は、差別のほうである。
何を差別と考えるかによって、結論は大きく違ってしまうのである。

 個人的な次元では、男女差はあるものだし、男女差をなくすことは愚かである。
ある男性がある女性を、個人的に他の女性とは異なった対応をする。
それは好みであって差別ではない。
だから、個人の次元では、どんなに男性性や女性性を演出してもいい、と思う。
男性がマッチョであろうと、女性がフェミニンであろうと、いっこうにかまわない。
でなければ、恋愛が成り立たない。

 男女という生理的な違いが、社会的な違いにまで演繹されて、
異なった社会的な対応が生まれること、それを差別と私は考えている。
ある男性がある女性を、社会的な次元で他の女性と異なった対応をすることは、
差別であって許されることではない。
男女の違いが、社会的な対応の違いをうむとき、それは許されない。
社会的には男女は公平に扱われるべきである。

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 筆者をかわいそうだと思うのは、
個人と社会の位相を区別してこなかったフェミニズムの負の遺産を、
一身に背負ってしまっていることだ。
本人はそれにまったく気づいていないから、
大きなお世話だというだろうし、現在のフェミニズムでいいというだろう。
しかし、現在のフェミニズムが、停滞状況にあることは、筆者も認識している。
停滞している理由を、男性社会のせいにしていては、フェミニズムに明るい未来はない。
やはりフェミニズムのほうにも、問題はあった。

問題は2つある。
1. 男女差別の原因を考察しなかったこと。
2. 生理的な男女差を、社会的な男女差に直結したこと。

 前者にかんしては、社会的な現象は、何らかの原因があることが多く、
結果を改善するためには、原因を除去しなければならない。
にもかかわらず、フェミニズムは結果の改善をのみ訴えて、原因の考察を怠った。
原因を除去しようとはせずに、結果だけを問題視した。
意識変革を重視し、差別されている現状を改善しようとするあまり、政治的な運動へ走りすぎた。
だから、女性たちをも納得させることができなかった。

 後者にかんしては、社会的な視点を欠落させ、個人的な感覚にたよった。
だから、共感する人たちだけの集団になってしまった。
そして、当人たちの恣意的な願望の実現が、フェミニズムになってしまった。
個人的な男女差と社会的な男女差を直結して、社会的な男女差を否定したら、
個人的な男女差まで否定されてしまう。
これでは男性である人、また女性である人は、フェミニズムに賛成できない。
 
 世の中は、バブルの頃はイキイキしていた中年男性たちが、途端に元気をなくしているように……見えるのだけれども、本当にそうだろうか? 私には、不景気が深刻になるにつれ、オジサンたちにとってはますますオイシー世界になっているように見える。P29

 不景気になれば、女性にしわよせがいくのは、当然のことだ。
男女差別の原因を考察しなかったことが、こうした発言になっている。
情報社会化が、女性の社会的な台頭を促進したのであり、
工業社会へと逆戻りするような不況の到来は、男性支配に戻ることを意味する。
腕力の無化が女性に有利だったことを、考察しないフェミニズムは、時代から取り残されていく。

 性差を相対化していくことが、逆に性差を強化し、ジエンダーを相対化していけばしていくほど、強化していく逆説的な現実を、私たちはただ、生きているのである。で、私は、無邪気に「ジェンダーフリー!」を提唱する最近のフェミの活動に(私自身もそういってきたのだけれど)、一抹のむなしさを感じるのである。P196

 こうしたぼやきがでるのも、今までのフェミニズムを見れば、また当然と言わなければならない。
個人的な性別と社会的な性差を直結したままで、
性差を相対化すれば、性差が強化されるのは当然である。
筆者の思考の幼稚さは、筆者だけに責任があるのではない。
これまでのフェミニズムを担ってきた人たちに、大いに責任がある。

 家にいて、家のことをしてくれる人が、家には絶対必要で、できれば、「ママみたいな人がいたらいいなあ」なんてことを、頭の片隅で思っていたのだった。
 だから、「専業主婦が悪い!」という発想が、まったく、私のなかにはなかったのだった。(中略)あれから20年。立派な(笑)フェミになり、そして結婚制度や専業主婦の社会的立場について、一応知り……。それでも、専業主婦を「家政婦だ」とか「奴隷みたいなもんだ」というように卑下するような言い方には、やっぱり、痛みを感じる。そんな風に紋切り型に他人の人生、生き方を評価することへの奢りを、そこに感じてしまうからなのだと思う。P36


 オジサンを徹底的に攻撃しながら、専業主婦を擁護してしまう鈍感さである。
オジサンと専業主婦は、同じ現象の表裏であり、
専業主婦の擁護と、オジサンバッシングは両立しない。
この発言のように、女性台頭の文脈からは、まったく逸脱してしまう幼さは、
筆者だけの責任ではなく既存のフェミニズムの責任である。
若い筆者の変革のエネルギーが、既存のフェミニズムによって、消耗させられているのを見るのは、何とも辛いことである。
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参考:
杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫、2008

下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
増田小夜「芸者」平凡社 1957
岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史 まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997


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